第二話 開渠かいきょの水面 (鷹屋実臣)

 イギリスから結倉ゆくらへ戻ってきたのは二年前。
 六年間の海外生活を終え、地元の駅に降りた俺は、何ひとつ変わっていない結倉にめまいがしたのを、今でも覚えている。
 歴史が分厚い層になって、揺るぎないものを築いているのを感じ取ったというのか。慣れ親しんだ場所から離れた人間にだけわかる、空気感……みたいな?
 そんななかで俺は店を始めた。というか継いだ。
LINER NOTESライナーノーツ」、それが俺の店の名前。 昼はランチ営業、夜はバー。商店街の真ん中過ぎたあたりのビルの地下。入りづらいなんて思う必要はない。地元の店だけど、いつだって誰だって俺は歓迎するよ。

「ぷはーっ」
「…………」
「あ~、やばい。やばいやばいって実臣さねおみ。あ、わりぃ、おかわり!」
(歓迎する……とは言ったけど)

 カウンターの隅、でっかいメイソンジャーを置くと、林吾りんごが口をパーカーの袖で拭う。
 高校生の分際で昼間から酒――なわけがない。
 こいつがうちの店で飲むのは牛乳オンリー。しかも自分専用のメイソンジャーを、勝手に棚に置いているから、タチが悪い。

「なあ、聞いてんのか? どうしようってば!」
「なんの話か見えないんだけど」
「だからさ、今月って二月だろ? てことは来月って三月じゃん!?
「うん……それ、普通じゃね?」

 こっちに捻った切り返しを求めてるんじゃないかって、疑いたくなるような発言に、俺は目を細めた。

「いやいや三月の春休みが終わったら、新学期ってことだから。つまり健康診断がくるわけ。オレ、身長伸ばさないとじゃん」
「伸ばしたいの?」
「とーぜん。言っとくけど、それまでにオレは175以上になるだから!」
「なる男って。ん? 待てよ、それってあと一ヶ月ちょいで7センチ……えー……おま、本当に馬鹿……じゃなくて頑張んないとだな」

 適当な相槌あいづちを打ちながら牛乳を注いでやると、林吾は鼻息荒くジャーを両手でつかみ、再び喉を鳴らして飲み始める。

「そうなんだよ、いろいろと頑張ることが多すぎ!」
「いろいろ?」
「おいおい、きょとんとすんなよ。おまえにも関係あることじゃん。新しい判者はんざ! 来るだろが」

 一瞬の沈黙。カウンターに座る林吾の表情は少しだけ、真面目だ。

「そうだな」
「しかも結倉じゃないとこから、呼ばれてくるわけだろ?  お役目のこと考えると、それ絶対不安に思ってるわけじゃん。オレたち歌詠みが、しっかり支えなくちゃダメっしょ!」
「なるほどな」
「そのためにはちゃんとしてさ、新しい判者を失望させないようにしねーと」
「うんうん」
「あ~オレ、もっと大人になりたい。でもどうやったらなれるか、わっかんねー!」

 ああ。大人になりたい、って言えるのは子どもの特権だよな。林吾の言葉を聞きながら、俺はそんなことを反射的に思った。
 でもいつからか俺たちは大人になり、「大人になりたい」と誰も言わなくなる。その瞬間は、必ず来る。
 そう考えていたら――

「おいこら実臣。なんか視線が生ぬるいぞ」
「生ぬるいって、あのな」

 俺を見上げる林吾は、どこか不満そうな顔つきだ。

「どーせ、オレはガキとか思ってんだろー。は~、その落ち着いた感じがムカつく!」
「ムカつかれてもねえ……そりゃ判者を支えるのは当然だとは思うけどさ。基本、なるようにしかならないって俺は思うし」
「はい、大人の発言キター。はぁ……オレもそんなふうに言ってみてぇ~!」
「言うのはタダだよ。ほら、言ってみ?」
「いやタダかもしんないけどさぁ、オレが言ったら嘘じゃん。なるようにしかならないなんて全然思えてねーもん!」

 そう言うと、悔しそうに林吾はジャーを睨む。
 まっすぐ。いや、純粋だよなぁ。自分はまだまだと思って、勝手に力んで凹んで。なんて目まぐるしい。
 だけどさ。

「――林吾」
「ん~?」

動かないはずの景色が揺れ動き、
希求を謳う 開渠かいきょの水面

 六年離れても、この町は何も変わっちゃいなかった。正直言えば、そこに少しだけ息苦しさはあった。 でも俺の感傷なんてお構いなしで、結倉はこれからもきっと変わらない。 そして俺の息苦しさも結局のところ、日々に溶け込んで、感じなくなって、いつかわからなくなる。そうなることを、大人は知っている。
 でもなんでだろうな。必死な林吾を見ていると、何かが違っていくような、動こうとする気配がさ。した気がして。
 俺の気持ちも揺れるみたいな。
 なんて言ったら、お前、どうする?

「……実臣ってたまに難しい言葉、歌に使うよなー。かいきょ? 奏一さんの歌とは違うんだけどさ」

 林吾は瞬きをしたあと、頬杖をつく。

「はいでた奏一馬鹿。それはともかく、どうよ?」
「え~? あー……なぁーんか余裕そうな感じは受けたけど」
「お、それがわかれば上々」
「うわ、その言い方! はっ、まさか……オレに対するイヤミか? イヤミの歌だったのか!?
「はいはい、落ち着けって。そんなんじゃないし、お前は大丈夫だよ。焦らず気負わず今のままでいけ。な?」
「な、じゃねぇ! くっ……歌の解説、今すぐしろー!」

次の話
戻る