うつそみに咲く (空谷真秀)

 すず色の分厚い雲が、空を覆っていた。
 今年一番の冷え込みなのか、結倉ゆくらは底冷えしていて、いつもなら子どもたちが遊ぶ公園には俺しかいない。

(手が、かじかんできた)

 クロッキー帳に走らせていた手を止めると、冷たい指先を握りしめた。
 そこへ、こち、と小さな音が耳を打つ。

「……?」

 こち、こちこち、と音は増え続け、見上げた空からひょうが降ってくる。仕方なく、公園の東屋あずまやへと逃げ込んだ。 雹がこのあと雪になるのか、雨になるかはわからなかったけど、嬉しくはなかった。もう少しスケッチをしたかったから。
 俺はコートをはらい、マフラーを口元まで押し上げ、不思議な音が広がる公園を見つめる。精彩さを欠いた他に誰もいない公園は、まるで世界と切り離されたようだった。
 そこに滲むのは、錫色と灰黄緑はいきみどり空色鼠そらいろねず

「あ……」

 人は、記憶がよみがえるとき、匂いや音がきっかけであることが多いという。でも俺の場合はいつだって色だ。
 その瞬間、瞬間で、目にしたり感じたりした様々な色が、混じり合った世界。それが容赦なく過去の扉を開く。

――あいつ、いっつも家にいるよなぁ
――学校サボってずりーの!
――しょうがないよ。まほくんは、特別だから

 曇天空の夕方。離れた場所から子どもの声が聞こえた。
 庭の石に絵を描いていた俺は顔をあげる。ランドセルを背負った子が数名、門から外へ出ていく途中だった。今日もまた授業のノートや宿題の連絡をしに来たのだろう。男の子の横顔は不満げで、学校にまるで来る気配もない俺のために届けるのを、面倒だと思っているのが伝わってくる。

「…………」

 せめて彼らに、ありがとうと言えたらいいのに。
 でも俺はそうすることができない。門から消えていく後ろ姿を、離れた庭先の茂みから眺めるだけ。
 なぜなら俺は、結界から出ることを許されていないから。
 幼稚園にあがる年の頃には「歌を詠む力」の強さを、俺は大人たちに認められていた。将来、歌詠みになることは間違いなしと言われ、俺自身も歌を詠むことは嫌いじゃなかったから、そういうものなのだと思っていた。少し、誇らしいとさえ思った。
 けれど――

「君の歌を詠む力は、あまりに強い。きっと、その力に引き寄せられる、よくない存在もいるだろう。だから私がいいと言うまで、結界を張ったこの屋敷から出てはいけないよ。そして今後、歌を詠むのは、君が歌詠みとなって、歌合うたあわせで土地神さまに捧げるときのみだ。それ以外で、むやみに詠んではいけない。いいね?」

 当時の判者はんざは俺の力を見ると、迷いなくそう言った。
 あの一言が、それまでの俺の世界を変えた。同い年の友人たちと過ごす時間は失われ、歌を詠む自由は取り上げられ、ひとりで過ごすことを余儀なくされた。最初は好奇心で覗きに来ていた子たちも、大人たちに遠慮するように言われたのか、単純に飽きたのか、次第に寄り付かなくなった。

――こち、こちこちこち

 雹の音が現実へと引き戻す。
 落ちては跳ねる氷の粒が、まるで地面に点々と、白くて丸い円を描いているようだった。

まつさらのろう石で描く、花や――

 ほぼ無意識だった。
 幼少の光景と無人の公園が重なって、過去と今の境界が滲む。
 歌が唇からこぼれると同時に、公園の隅々まで、力が振動となって広がるのがわかった。ビリッと頬に感じた刺激に、はっと我に返る。

(しまっ――)
「あれ、真秀まほ?」
「……!」

 視線を向けると、傘をさして立っていたのはたかさんだった。
 ポケットに片手を突っ込んだまま、公園の入り口から東屋まで歩いてくる。

「なんだ、傘も持たずに出たのか?」
「う、ん」
「あれだけ天気予報で雪か雨って言ってたのに」
「……そういうの、見ないから」
「いやいや見なさいっての」

 鷹さんは東屋には入らずに、落ちてくる雹に視線を向ける。

「にしたって雹とはね」
「鷹さんはバーに行く途中……じゃないよね」

 彼が住む家は、経営している「LINER NOTES」からほど近い。この公園を通るはずはなかった。

「んー、ちょっと常連の野間さんから相談を受けてな」
「相談?」
「庭に植えた草花が枯れ始めてるって話でさ。気温は例年通りだし、病気を持っているわけでもなさそうなのにって」
「…………」

 なんでそんなことを鷹さんに相談したのか、なんてわかりきっている。
 判者が交代を宣言してからもうすぐ一ヶ月。そして新しい判者が来るのは四月。今月と来月は、土地神さまのための歌合を開くことができない。
 結倉の町で一ヶ月に一度、定期的に歌合を行うのにはちゃんと理由がある。土地神さまの御心を鎮めなければ、町に災いが起こるからだ。

「鷹さんは、異変だと思ってるの?」
「どうかなぁ。今から見に行くとこだから、まだなんとも。でも野間さんは、疑ってる風だったね」
「……そう」
「真秀、お前は来なくていいからな」
「――ん」

 今では結界を出て、ある程度の自由は得られているけれど、それでも俺が歌合以外で歌を詠めないことには意味がある。
 つまり、もし野間さんの家で何かが起きても・・・・・・・、俺は対処することができない。鷹さんは暗にそう言っていた。悔しいけど仕方がない。何度も感じた思いを今回もまた、飲み込むだけ。
 その瞬間、雹が混じった風が俺たちに吹きつける。
 鷹さんと俺は同時に顔をしかめた。雹が当たる痛みだけじゃない。風に嫌な気配が滲んでいたからだ。粘着質な悪意。鼻を刺激する微かな腐敗臭。
 たちまちみぞおちが震えた。本能が警鐘を鳴らす。

「これ……」
「なんで急に」

 鷹さんから戸惑うような声があがるけど、理由はわかっていた。
 俺のせいだ。さっき途中まで詠んだ歌が、ヤツら・・・を引き寄せたに違いない。

「鷹さ――」

 再び逆巻いた風が俺たちに叩きつけられた。
 たまらず腕で顔を覆うと、足に鋭い痛みを覚える。目を開けた俺の視界に飛び込んだのは、東屋や俺たちの身体に付着した雹が、広がって凍り始めている光景だった。

「……っ、う、そだろ」
「真秀!」

 鷹さんが鋭い声をあげ、短く何ごとかを呟くと、俺の足に覆われた氷に拳を叩きつける。粉々に砕かれると足は動かせるようになった。

「家へ戻れ。この場は俺がなんとかする!」
「でも――」
「行け!!

 その声に俺は後ずさりし、軽く息を吸い込んだ。

「……お願いします」

 そのまま東屋から飛び出すと、公園の出入り口に走る。
 背後は振り返らなかった。今、俺にできることは鷹さんの邪魔にならないこと。ここから一秒でも早く、遠ざかること。
 俺はこんなとき――本当に何もできない。

(……っ、町に異変が始まっているのに!)

 頬に飛んでくる雹を手の甲でこすった。苛立ちと不安が、胸を侵食していくのを強く感じながら。
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