羽打ち交はす (佐波奏一)

「あ、奏一さーん! こっちです!」
 
 少しだけ陽気を見せた如月下旬。
 浮宮むく神社に向かおうと思掛おもかけ橋を渡っていると、橋の向こう側、鳥居前で林吾が盛大に手を振っているのが見えた。

「え、嘘でしょ。はやっ」
 
 私の隣を歩いていた新館さんが、心底驚いた声をあげる。
 
「どうやら走ってきてくれたみたいだね」
「走ってくるにしても……桃園くんには五分前に連絡したばかりですよ?」
「マイー! 連絡ありがとな! 奏一さんと神社行くって聞いたから、家飛び出してきた!」
「……あれって比喩じゃないですよね?」
「ふふ、飛んできた姿が目に浮かぶね」
 
 跳ねるように橋を駆け、林吾は私たちのところまで戻ってくる。彼はスマホ以外は何も持たずに、ジャンパー一枚だけ羽織っていた。

「林吾、その格好で寒くはない?」
「はい、大丈夫っす! オレいつも動いてるんで」

 両手を振り回しながら林吾は元気に答える。
 風の子というよりも、風の中で走り回るワンコといったほうが正しいかもしれない、なんて思ってしまう。

「それで奏一さん、ここにはどうして?」
「数日前のひょうが降った日のこと、ふたりとも覚えている?」
「あの天気の悪かった日ですよね……覚えています」

 新館さんが答えると、林吾も首を縦にふる。

「実はあの日、実臣から報告を受けてね」

 私は手短にふたりに説明をした。バーの常連の野間さんが、庭の植物が枯れ始めていて少し異常な気がすると相談したこと。実臣がその確認へ向かった途中で、空谷くんと公園で会ったこと。
 そこで不自然に空気が澱み、ふたりが雹に襲われたこと――

「え……それホントですか!?
「うん。そのときは実臣が空谷くんを公園から逃して、ひとりで対処したみたい」
「……くっそぅ、マホ。オレになんも教えてくんなかった!」
「騒ぎを大きくするのはよくないと思ったんだろうね」
「でも水くさいですよ! オレ、あいつとコンビなのに!」

 林吾は悔しさを隠そうともせずに、拳を握りしめる。

「でね、騒ぎを収拾したあと、空谷くんが、きっと自分が公園で歌をんだせいだって報告してくれたんだ」
「あ、あいつ詠んだんですか!?
「……それってまずいんじゃ?」

 空谷くんの事情を知っているふたりが、同時に顔を引きつらせた。
 気持ちはわかる。私も打ち明けられた時は、一瞬、言葉を失ってしまったから。

「完全にはうたいきらなかったみたいだけどね」
「でも空谷さんの力ってすごく強いんですよね。だったらそれが影響しているって考えてもおかしくはないかも」
「いや待てって、マイ。マホの力はすげーけど、氷漬けになりかけるなんて異常だろ!」
「まあ……そうだよね」

 新館さんが視線を揺らしながら階段の上を見た。
 自然と、私と林吾も浮宮神社を見上げる。

「そんな話を聞いてしまったら、ひとまず土地神さまの影響かどうかを調べる必要があるかと思って。調べるといってもたいしたことはできな――」

 言いながら鳥居をくぐった瞬間だった。
 身体にかかる圧の重さに、口をつぐむ。ここには毎日、結倉の誰かが参拝に来て、掃除をして、場を清めている。
 それなのに、なんて重苦しいよどんだ空気だろう。

(これは想像以上に……)

 嫌な予感しかしないまま、階段をあがりきった右手にあるお手水ちょうずで手と口を清め、土地神さまが祀られた本殿へ向かう。
 立てかけられた神楽鈴を手に取り、普段より念入りに音を響かせる。それでも澱みは晴れない。重たい足取りで本殿の脇を歩き、そのまま奥に続く道へと向かった。

「あの、オレよくわかんないすけど、いつもと違う感じしません?」
「私も思った。少し前にミコトとここで会ったときと空気が違う。前はこんなに重くなかった……と思う」
「やっぱりふたりも感じたんだね。これは歌合を行っていないからだと思う」

 私の言葉に林吾たちが身じろぐ。

「よくない兆候だけど落ち着いてね。今までにも歌合がなかった時は何度もあったんだ。判者の選定が進まなかったとか、それこそ今回みたいに、交代まで期間を要したとか」
「そういうのって文献に残っているんですか?」
「私の家は歌詠み衆になった者が多いから、当時のことを日記として残していることがあって。それを資料として読んだことがあるんだ」
「へえ……」

 本を読むのが好きな新館さんは、興味深そうに目を瞬かせた。

「奏一さん、日記にはなんて書いてあったんですか?」
「判者が決まらず歌合ができないでいたら、天変地異が増えたと書いてあった。雨が一ヶ月近く止まなかったり、やたら霧が発生したり、落雷があって火事になったり……それから怪異もあったみたい」
「か、怪異ってつまりその、ホラー的な?」
「そう、土地神さまの加護が薄れることで、この世ならざる……常夜とこよのものたちが渡ってくるらしい。実際、怪異に巻き込まれて亡くなった人々もいると記載されていた」
「ま、まじですか!」
「はっきり言えるのは天災にしろ、常夜のものたちの仕業しわざにせよ、土地神さまの深い嘆きが引き寄せる【負】が原因だ」

 説明しながら本殿を振り返ろうとしたところで、上空をカラスの群れが鳴き叫びながら飛んでいった。鬱蒼うっそうと茂った木立に横切る、無数の影。
 切り裂く声に、否応なしに不安は掻き立てられる。

「あんな大群初めて見たんだけど。まさかあれも――」
「おい、怖いこと言うなって!」
「……桃園くん、ひょっとして怖いの?」
「こ、怖くねーよ!?
「……」
「ほんとだし!?
「まあまあ林吾、落ち着いて」
「そ、奏一さん、オレ怖くないですからね!!
「うん、わかっているよ」

 涙目で弁解する林吾をなだめながら、私は木立の間に佇む鳥居と狛犬に一礼をして、横を通り過ぎる。
 カラスは町へと向かったのか、声は小さくなっていった。

「……土地神さまの嘆きの影響ってすごいんですね。話には聞いていましたけど、私は歌合がなかった時を経験していないので、漠然としてて」
「ここしばらくは判者がやめる前に次の判者を決めていたからね。間をあけずに交代できていたんだ。だから今いる歌詠み衆は、歌合が開けないという事態を、誰も経験していないと思う」
「あの、奏一さん。土地神さまの嘆きって、前の土地神さまを喪ったから……なんすよね?」
「そうだよ。今の土地神さまは結倉の土地神さま二代目。もともと結倉にはおられなかった【言霊ことだまを司る神さま】だったんだ。そして結倉を最初に土地神さまとして見守っていたのは、人々が詠む短歌を愛する神さまだった」

 その土地神さまと言霊の神さまは出会うと、互いに恋に落ち、愛し合った。
 土地神さまと深い親交があった結倉の人々は、二はしらの出会いを心から祝福し、そして二柱の神の喜びもまた、結倉に多くの恩恵を与えてくれた。

「だから土地神さまを喪ったとき、言霊の神さまと同じくらい人々は嘆き悲しんだ。だけど途方に暮れている場合でもなかった。彼らは結倉の今後も考えなければならなかったんだ。土地を守ってくださる神を失えば、結倉は衰退していってしまうだろうからね。だから言霊の神さまに、土地神になってほしいと願い出たんだ」

 ――時折、あの者との思い出に寄せて、お前たちが私に恋の歌を届けてくれるなら。
 言霊の神さまは土地神になるのと引き換えに、そう条件を出した。それが歌合の始まりだ。

「言霊の神さまと約束した人々は、新しい土地神さまとして迎え入れ、その嘆きをお慰めするべく、恋の歌を捧げるようになった。それが今も続いている」

 本殿より奥の場所までくると足を止め、居住まいを正す。
 眼の前に現れたのは悠然と佇む御神木。その、しめ縄がかかった大樹に頭を深く垂れた。林吾たちも同じように頭を下げる気配がする。
 次の判者が来るまであと一ヶ月。

(必ずお約束を果たします。だから――)

 それまでどうか、無事に過ごせるように。
 結倉の人々が苦しむことがないように。

ちはやぶる神の心に添ひつきて
羽打ち交はす歌をおくらん

 歌は一滴の雫。自分を中心として波紋となり、境内の端まで広がってさざめく。
 一瞬のタイムラグ。
 はた、と柔らかな音。土の上に黒々とした点が落ちた。
 
「雨……奏一さんが歌を詠んだからだ!」
(ほんの少しでも、慰めの雨となってほしい)
 
 気休めだとしても。私たちの勝手な祈りだとしても。
 澱みをわずかに吸い取るように、明るい空から柔らかな雨が降りしきる。しばらくの間、私たちは黙って立ち続けた。
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