心のうちを (空谷真秀)

 縁側に面した窓ガラスが風で大きな音を立てる。
 午後から降り出した雨も雷も、未だに続いていた。明らかにおかしな天候に、俺は重い溜息を吐く。

「いよいよ、なんですかね」

 居間の座布団に座ったまい・・がこちらを見上げた。彼女がやってきたのは十分ほど前。ひとりでこの家に来るなんて初めてのはずだ。
 なぜ彼女はここに来たのか。理由は簡単だ。
 先代の判者はんざから、俺の家へ行くようにと指示があったらしい。メールも見せてもらった。
 玄関の方から誰かが走ってくる音がする。
 これは――

「マホ!」
「やっぱり……桃か」

 横殴りの雨のせいで、桃の前髪は濡れていた。

「あれ、マイじゃん。もしかして先代の……」
「判者さまからメールをもらって、ここに」
「オレと一緒じゃん! でもなんでだろ?」

 首をかしげる桃に向かって、俺はバスタオルを投げる。

「サンキュ。いやー雨やばくない? 雷もずっと鳴ってるし」
「空の雨雲も渦巻いてるし?」

 頬杖をついたまいが言うと、桃は頭を拭いていた手を止めた。

「あれまじで怖いよな!? 魔王さまが出てきそーじゃん!」
「魔王って誰……」

 眼鏡のブリッジを押し上げながら、俺は思わずつっこむ。

「え、そりゃわかんねーけど、あの渦の中心から出てきそーだろ?」
「そうなったら、もはや化けガラスどころじゃないな」

 桃にお茶を頼むため、俺は廊下に出ようとした。雷鳴がとどろき、再び風が窓ガラスを強く叩く。
 数秒後、粉々にガラスが砕ける音が響いた。

「……何、今の音?」

 まいが不安そうな表情を浮かべる。

「家のどっかで窓が割れたっぽい」
「え、そんなに風ひどいのか」

 首にタオルを巻くと、桃が俺の横を通って廊下に出た。
 遠くで聞こえる家人たちの声。家の中の空気が揺れる。外部からの影響で、屋敷全体に施されていた結界が――

「待って。結界の気配がしない」

 強張った声が自分の口からこぼれる。

「は? しないってどーゆーこと?」
「どうもこうも……」

 言いかけた瞬間、廊下の角から家人が走ってきた。

真秀まほさま!!

 さきほどのガラスで切れたのか、頬から血が流れているのも気に留めず、こちらに手を伸ばしてくる。

「第一の結界が破られました! どうか奥座敷へ……!」

 しかしその姿は押し寄せる真っ黒な何かに巻き込まれ、瞬時に消えた。

「な……」

 耳障りな、いくつもの鳴き声。かすかな腐敗臭。
 あの大きな黒い群れは。

「カラス!?
「――マイ!」

 桃が部屋の中に向かって叫ぶ。

「マホを連れて奥座敷へ行け!」
「う、うん!」

 中腰になっていたまいが、俺のもとへ駆け寄ると腕を掴んだ。

空谷そらたにさん早く!」
「待っ――」

 引っ張られた俺の目は、俺たちと真逆の方向、つまりカラスの大群へ走っていく桃の姿を捉える。全身があわ立った。

「桃、何するつもりだ」
「オレが時間を稼ぐ!」
「馬鹿言うな……!」
「あなたは行っては駄目!」

 まいが必死の形相で俺を引っ張る。

「だけど桃が――」
「駄目ったら駄目! 万が一のことがあったら、空谷さんを見張ってくれって、この前、鷹屋たかやさんにお願いされたんだから!」
「な……」
「奥座敷はどっち? そこまであなたを連れていく!」

 焦った表情のまいと、こちらも見ずに走っていく桃。
 耳の奥でガンガンと音がうるさい。突然の出来事に、心臓は早鐘のように鳴っていた。
 桃を置いて、ここを離れる?
 俺だけ奥座敷の安全な場所へ?

「……っ」
「空谷さん!」
「おりゃぁぁぁぁあ!!

 桃の叫び声に、我に返る。
 両手をがむしゃらに振り回し、カラスを追い払おうとする桃の姿が、またたく間に黒に塗りつぶされ、大きな音を立てて廊下に倒れた。

「桃!」

 力の強い俺は、歌合でしか詠めない。
 そうでない場所で歌えば、影響が出てしまうから。

(わかってる)
(そんなこと、わかってる)
(だけど)

「――守るって、決めたんだよ 」
「え?」
「離せ!」

 まいの腕を振り切り、桃へ向かおうとした。気づいたカラスの大群がこちらに向かって飛んでくる。
 俺は歌を詠むため、身構え、息を吸い込んだ。
 そのときだ。

沈丁花 静やかに在る。遂げがたき心のうちを何に託さう

 どこからか歌が聞こえた。
 聞き覚えのあるそれに、俺は眉をひそめる。

(待て、今のは……)

 息を吸い込む。心臓がチリッと痛みを覚えた。
 空気が冷たいせいだ。でも息は白くない。ただ空気が、少しでも動けば切れてしまいそうなくらい澄んで、澄み切っている――。
 目の前までせまっていたカラスの大群が、ぎこちなく動きを止めたかと思うと、まるで大きな鎌が振り切られたように、どの身体も真っ二つになる。羽根が舞い上がって、かすかな臭気と共に真っ黒な蒸気が立ちのぼった。
 風が吹き抜け、次の瞬間あとかたもなく消失する。そこには床に倒れた桃と、廊下の端に同じように倒れている家人だけが残っていた。

「桃、しっかりしろ!」

 俺は駆け寄り、急いで抱き起こす。

「わ、私は向こうの人を見ます!」

 まいが走っていった。

「……んっ」

 桃がみじろぎ、軽くうめき声をあげる。
 それを見た瞬間、ずっと息を止めていたことを思い出し、俺は大きく息を吐き出した。

「よかった、桃」
「あれ……オレ、どうなって?」
「カラスに襲われたんだよ……なんて無茶するんだ」
「だって、どうにかしなきゃって思ったら、身体が勝手に動いてたっていうか」

 ほっとすると同時に怒りがわく。
 嫌味の一つでも言おうとした俺は、板が小さく軋む音を耳に拾った。カラスの大群がまた来たのかとこわばった顔をあげる。
 けれど廊下の角から現れたのは、意外な人物だった。

「せ、先代さま?」

 先代せんだいの判者だった。驚く俺に、先代は穏やかな笑みを浮かべる。

「間に合ったようですね」
「どうしてここへ……」
「あなたたちに知らせるべきことがあったのと、何やら予感がしたので」

 言いかけた先代が大きく咳き込んだ。ふらついた上半身が壁に当たり、廊下に座りこむ。

「先代さま!」

 まいが家人の傍から駆け、その肩を支えた。

「ありがとう、新館にいだてさん。少し無茶をしてしまいました」
「……まさかさっきの歌は先代さまが? あれは、歌合で俺が詠んだやつですよね」
「ええ、そうです。空谷さんの歌はやはり強い力を秘めていますね。私には歌詠みの力はないけれど、これだけの威力を放てるのですから……」
「そんな。なんて無茶をされるんですか!」

 再び咳き込む先代の背中をまいが必死にさする。
 彼女が焦るのも無理はない。
 短歌に込めた力でもって、鬼神きじんをなぐさめ、天地あめつちを動かす俺たち歌詠みの力と、判者の力はまったくの別物だ。
 もし判者が短歌に込められた力を発動するとなると、判者自身の心身――つまり、命を削らなければならない。

「三人とも、よく聞きなさい。見ての通り、結倉はいま危険な状況に陥っています」
歌合うたあわせを二ヶ月、開けなかったからですよね?」

 桃が言うと、先代はうなずく。
 けれどその顔はあまり納得していなかった。

「確かにそれが原因だと言えますが、それにしてもこんなに酷い有様になるのは、何やら奇妙な気がします……いえ、今はその解明より、事態の収拾を図ることが先決でしょう」

 先代は俺と、桃、そしてまいのひとりずつを見つめる。

「今から三人で浮宮むく神社へ向かいなさい」
「神社へ? どうして……」

 不安げなまいに、先代はゆっくりとうなずいた。

「歌詠み衆であるあなたたちのすべきことが、あるからです」

 窓を叩く雨風と、空を渦巻く灰色の不気味な雲。沈黙のあとに轟く雷光が、俺たちの動揺した表情を浮き上がらせる。だけど、戸惑ったのはその一瞬だった。例えもう先代が判者でないのだとしても、俺たちは何度も共に結倉を守ってきた。その信頼に足る存在が、「すべきことをしろ」と言っている。
 何を迷う必要があるだろう?

「……わかりました」

 俺の返事に桃とまいが、はっとした表情を見せる。

「空谷さん、これを持っていきなさい」

 渡されたのは一枚の札だった。

「少しの間だけ、あなたを守ってくれます」
「ありがとうございます」
「よし、マホ、急ごうぜ!」
「先代さま、行ってまいります」

 目を細めて微笑む先代を確認すると、一斉に俺たちは玄関へ走り出した。
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