風よ導け (小鈴みこと)

 横殴りの雨に、持っていた傘が大きく裏返る。
 いよいよ本格的になってきたと感じると、俺は諦めて傘を閉じた。

「おみさん、そーいちさん!」

 雨風の音に負けないよう声を張り上げる。

「どうする? 今日は巡回やめる!?

 化けガラスだけじゃなく、町全体に漂う嫌な気配を心配し、見回っていた俺たちだったが、さすがにこの天候の中を歩くのは、危険な気がした。

「そうだね。戻ったほうがいいかもしれない」

 レインコートを着たそーいちさんが振り向く。
 用意がいい彼は手に懐中電灯を持っていた。その明かりに映る雨の線は、鋭さを増すばかり。

「駄目だな、こりゃ」

 額に張り付いた前髪をかきあげ、おみさんも近づいてきた。

「いったん俺の店に戻るか。ここから一番近いし」
「そうだね」

 方向性が決まって、ほっとした瞬間だった。

「おーい!」
「……野間さん?」

 おみさんが驚いた顔をして、こちらに走ってくる男性を見る。

鷹屋たかやくん、大変だよ。大変だ!」
「どうしたんですか」

 野間さんと呼ばれた五十代くらいの男性は、俺と同じように傘がひっくり返った状態で、びしょ濡れだった。でもそんなこと今はどうでもいい風で、顔をひきつらせて息を吸い込む。

思掛橋おもかけばしに、でっかいカラスがいたんだよ!」
「……!」

 そーいちさんの肩が小さく揺れた。

「でかいカラスって、カトレアちゃんくらいの?」
「え? カトレア……ああ、あの人形か。うん、それくらい。最初は子どもがてっきり橋の欄干らんかんに腰掛けてるんだと思ってさ、こんな雨の中、何してんだー! って怒ろうとしたら違ったんだ。しかもすごい臭いで……もう……」

 思い出したのか、野間さんは吐きそうな顔をして首を横に振る。

「結倉はどうなっちまってんだよぉ。新しい判者はんざさんはいつ来るんだい?」
「それは……」

 言いよどむおみさんの横から、そーいちさんが身を乗り出した。

「ひとまず私たちが橋の方へ向かいます。常夜とこよへ送り返すために、そのカラスをずっと探していたんです」
「そ、そうか……まあ判者さんがいない以上、あんたらだけが頼りだよ。お願いするよ、歌詠みさんたち」

 野間さんはそういうと、裏返った傘をガチャガチャといじりながら、足早に去っていく。
 その様子におみさんがため息を吐いた。

「よりによって今出てくるか……カラスアちゃん」
「私たちの都合なんて考えてくれるわけがないよ。さ、行こう」

 衣川の土手へ続く道を、そーいちさんが走りだす。その頭上でとぐろを巻く雨雲をにらむと、俺とおみさんも後を追った。
 思掛橋のある土手まで行くと、たしかに巨大なカラスが欄干にとまっていた。

「うわ、本当にでっかい」
「だろ? カトレアちゃんって言った俺は的確だと思わないか?」
「実臣……自慢気に言うことでもないよ」

 呆れたようにそーいちさんが苦笑する。

「もうちょっと近づきたいが、こっちに気づいて逃げられたら嫌だなぁ。でもこの土手じゃ丸見えだし……仕方ないか」
「ぞのの指示通り、鼻の下にメンソール塗らなくていい?」

 歩き出したおみさんに俺が言うと、彼は軽く吹き出した。

「塗りたきゃ塗っとけ。でもこんな風だし臭いは――」

 言いかけた彼の表情が怪訝なものに変わる。
 注意深く周囲を見渡す様子に、俺とそーいちさんは足を止めた。

「どうしたの、実臣」
「……風が止んでやがる」
「…………」

 言われてみると、そのとおりだった。
 さきほどまであんなに横殴りだった風がここに来て、止んでいる。

「変だね。土手ならもっと風が強くなるはず」
「風だけじゃないよ、雨もだ」

 俺の言葉に続き、そーいちさんが嫌そうな顔をした。沈黙が降りた瞬間、俺たちは同時に化けガラスを見る。
 カラスは大きな翼を広げたかと思うと、勢いよく羽ばたかせた。そのとたん、その翼から、通常の大きさのカラスが何十羽も飛び出し、結倉の町へ一斉に向かう。

「なっ……!?
「みこと、よそ見するな。来るぞ!」

 おみさんの叫びと共に橋から飛んだ化けガラスがこちらに向かってくる。
 カラスの飛ぶ速さじゃない――

「く……!」

 俺ができたことといえば、土手の草原くさはらに身体を倒すことぐらいだった。すれすれで化けガラスが飛んでいく。
 起きあがろうとして、手足が動かなかった。

「……これ、は」

 腐乱臭ふらんしゅうのあまりのひどさに身体が痺れている。咳き込みながら、堪らず両手で鼻先を覆った。涙が溢れて止まらない。
 旋回せんかいした化けガラスが再びこちらに狙いを定め、下降していた。
 逃げなければ。
 でも身体が動かない。
 戦わなくちゃ。
 でもどうやって――

「く、っそぉぉ!」

 おみさんが吼えながら、その場に立ち上がった。
 半ば無理やりだったのか、大きくその身体が揺れる。

「奏一、寝てんな!」
「わか……ってる!」

 そーいちさんもその横に立つ。同じようにふらついているけれど、ふたりは痺れに負けていなかった。

「お前がめ。俺がおとりになる!」
「ああ」

 おみさんが一歩前に足を出し、横に動こうとする。
 けれど化けガラスは巨体にも関わらず、素早い動きで再び翼を羽ばたかせると、あろうことか今度は風を起こした。
 土手の草をなぎ倒し、風は思い切りふたりにぶつかる。

「ぐ、あぁ!?
「がはっ……!」

 俺も地面に顔を伏せるのが一秒でも遅かったら、腐った風が直撃していただろう。なんとかやり過ごし顔をあげた俺が見たのは、攻撃する隙をもらえず、地面に倒れたふたりだった。
 おみさんたちの身体は痙攣していた。

「おみさん、そーいちさん!」

 化けガラスが空を飛ぶ。渦巻いたどす黒い雲を横切り、倒れる俺たちをあざ笑うように、引きつれた醜い鳴き声をあげた。
 ふたりに向かって必死に手をのばす。
 しびれはまだ残っていたけど、片方の手で地面の草を思い切り掴み、歯を食いしばって上半身を起き上がらせた。

(届けよ、手……)
(伸ばしたのに届かない、なんて)
(イヤだ)
(イヤなんだよ)

 上空でカラスが再び鳴く。

「――調子に乗ってんなよ、化けガラス」

 左右に揺れながら、なんとか立ち上がった俺を見て、化けガラスが大きく旋回する。その巨体を睨みつけた。
 おみさんたちを守らなくちゃ。なんとしても。

「お前の風に負けてたまるか……」

 腐敗したおぞましい風なんて。
 俺が。全部。

(吹きはらう!!

加速して揺れて流れて遷移せんいする風よ導け世のことわりを!

 歌を詠んだその一瞬。
 世界がクリアになった気がした。
 化けガラスだけが視界にあって、俺の意識はその忌まわしい存在に集中しているような。それでいて、普段なら拾うこともない小さな音を耳は拾う。
 土手に咲く花についた、雨のしずくが落ちる音。川の石にぶつかる水の音。倒れたふたりの息遣い。
 そして空で渦巻く雲の流れを突っ切って、今、俺の傍に来ようとする――

 風が。

 一点の濁りもない清麗せいれいな風が、吹いた。
 周囲の濁った空気を払うように広がっていく。風が当たると、化けガラスは醜い鳴き声をあげ、急旋回して逃げていった。

「あいつ、町へ!?

 追いかけようとした俺を誰かが呼ぶ。

「ま、て……みこと」
「おみさん! そーいちさん!」

 慌ててふたりに駆け寄った。

「大丈夫、立てる? 怪我は?」
「あ、ああ……なんとか大丈夫だ」
「……小鈴君すごかったね、今の歌」

 そーいちさんが泥のついた頬をこすりながら、まだ痺れているのか少し引きつれた笑顔を見せた。

「無我夢中だったんで、よくわからなかったですけど……化けガラスの風に負けてたまるかって思ったんです。そしたら、自分の意識からいろんなものがなくなって、化けガラスだけに集中できて……」

 少し呆然と、先ほどの感覚を思い出す。

「風が、来るってわかったんです」
天地あめつちをも動かす歌詠みの力……君は、神風かむかぜを起こしたんだ」
「俺が……?」
「助かったぞ、みこと」
「別に、俺は……え?」

 ふたりから優しい目を向けられ、困ったように目を上げた俺は軽く息を呑んだ。土手に別の姿があったからだ。こちらに気づいて、まっすぐに近づいてくる。
 あれはまさかという思いと。
 記憶に残る姿がだぶって、俺は小さく震えた。

「……あの子は?」

 俺の視線に気づいて振り返ったおみさんが、不思議そうに彼女・・を見る。速くなる鼓動を抑えながら、口を開こうとした瞬間だった。

「あー! 奏一さーん!」

 土手から現れたぞのが、大きな声で呼びかける。その背後から空谷さんと新館の姿も続いていた。

「どうしてここに……空谷くん、屋敷から出てはまずいんじゃ……」

 奏一さんが尋ねると、空谷さんは首を横に振る。

「先代さまから浮宮むく神社へ向かうように指示があったんです」
「先代さまから?」
「そうなんですよ、奏一さん! マホの家にマイと集まったら、カラスがドバーってきて、オレがやべーことになって、そしたら先代さまがマホの歌でシュバッ!! って成敗して!」
「要領は得ないが、いろいろあったことはわかったぞ」

 おみさんが苦笑しながらうなずいた。

(ちょっと待て。今、ここに歌詠みが全員揃ってる? 先代からの指示?)

 俺はこの状況と、少し離れた場所に立つ【彼女】が、とても偶然とは思えなくて、嫌な予感を覚える。

「……それで、この人は?」

 怪訝そうに新館が言うと、視線が集まった彼女は俺たちにゆっくりとお辞儀をした。

「はじめまして。歌詠み衆とお見受けいたします。私は先代の判者さまより手紙を受け取り、このたび新しい判者に就いた、野々上ののうえさき です」
!!

 誰かが息を呑む。
 俺は先ほどとは違う意味で、音が消えていくのを感じた。

(ああ……嘘だろ、そんな)

 彼女・・が判者だなんて――

「本日、結倉に越してきたのですが、起きている現状を見て、先代の判者さまにご相談いたしました。みなさまを集めていただいたのは私です。この二ヶ月、ご負担とご迷惑をおかけしたことを、お詫びいたします」
「君が、新しい判者さま?」

 奏一さんが呟く。
 彼女は柔らかく微笑んだ。けれどその笑みもすぐに改め、厳しい表情に変わった。

「こちらへ来る途中、大きな不浄の塊が町へ飛んでいくのを見ました」
「それ、化けガラスなんだ。俺たちが仕留めそこねて……」

 おみさんが申し訳なさそうに言う。

「え、じゃあ追いかけないとまずくね!?
「待て、桃。だからそうやって突っ走るな」

 走りかけたぞのの襟首を掴み、空谷さんがため息を吐いた。

「不浄が出たのも、土地神さまの嘆きが鎮められていないため。根本を正すのが結果的に一番の解決策かと」
「そのとおりです。判者さま」

 彼女の言葉にそーいちさんが同意する。

「みなさま、浮宮神社へ参りましょう。事態を収拾すべく、これより歌合うたあわせを行います」

 彼女――新しい判者がそう言うと最初に膝を折ったのは、そーいちさんとおみさん。それからぞのと新館、空谷さんが続き、最後に俺は微かに震える足を隠すように、うつむいて膝を折る。

つつしんでお受けいたします」

 六人の声はぴたりと合った。
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