霧雨

 それからしばらくの間、結倉ゆくらは穏やかだった。何もないことのありがたみは住人の心から薄れつつあったが、平穏が当たり前である日常というのは決して悪いことではない。
 ある日の午後、林吾りんごは雨が降るなか学校からの帰り道を歩いていた。校舎を出るときは小ぶりだったが、次第に雨脚は強まりつつある。農業を営む林吾の祖父が「傘を持っていけ」と言わなかったら、今ごろ彼は濡れそぼっていただろう。どんな天気予報より「じっちゃんの予報」を信じる林吾は、半ば得意げな気持ちだった。

「……ん?」

 傘を傾けた拍子に、前を歩く子どもが見えた。
 小学校低学年くらいだろうか。傘も差さず、トボトボと歩いている。いや、よく見ると子どもはベソをかいていた。

「おーい、どーした」

 駆け寄った林吾の声に子どもが顔を上げる。大きくまんまるな目と、小さな鼻先が真っ赤だ。

「……かさ、なくしちゃったんだ」
「それで泣いてたのか」
「だってだって、だいじなかさなのに」

 喋っていたら余計に悲しくなったのか、こどもは泣きじゃくり出す。

「う~~ん、じゃあ、この傘、おまえにやるよ」
「え……」

 差し出された傘に子どもが面食らう。
 林吾の傘は、どこにでもある真っ黒いシンプルな傘で、なおかつ一本、骨が微妙に曲がっている、使い古したものだった。

「……かっこわるい」
「チッチッチ! 甘いぞ! この傘はなぁ、去年のすんごい台風の中でも、ひっくり返らずにいた超超すごい傘だ! 傘のなかの傘。キングオブアンブレラ!」
「キングオブ、アンブレラ……!」

 子どもの心に何かが刺さったようだ。黒い傘を感心するように見上げている。林吾はその小さな手に、取っ手を握らせた。

「お前にこの傘を託そう。大事に使ってくれ」
「うん!」

 嬉しそうに子どもは駆け出し、林吾を少し振り返って、手を振る。

「兄ちゃん、ありがとう!」
「おーう、気をつけて帰れよ!」

 その子が角を曲がるまで見送った林吾は、満足そうにうなずいた。

「いいことした、オレ」

 へっへっへと笑いながら歩き出す。
 今のこの気持ちを、歌にしたい――そう思った瞬間。まるで見計らったように、雨がどしゃぶりへと変わった。

「うげっ!? えっ、まじ!?」

 傘のない林吾は、悲鳴をあげながら帰るはめとなったのだった。



 数日後。
 やはり小雨がパラつく、ある日曜日。林吾がいつものように川の土手へ向かおうと、玄関を出たときだった。

「あれ、これって」

 立て掛けてあった黒い傘に手を伸ばす。それは少し前に、林吾が道で会った子どもにあげたものだった。しかも傘の横には、編まれた葛籠つづらの中に、果物がどっさりと入っている。
 どうやら、わざわざ返しに来たようだ。しかもご丁寧な贈り物つきで。

「やるって言ったのに律儀だなぁ、あいつ……うん? オレ、自分の名前言ったっけ?」

 なんでオレの家、知ってんだ?
 首を傾げること数秒。

「ま、いっか!」

 玄関に葛籠を入れると、林吾は傘を持ったまま歩きだす。
 使い込んではいるが、ノーブランドの黒い傘だ。子どもにあげようと思ったとき、惜しいと感じたわけでもないが、手元に戻ってきたことが、なんとなく嬉しかった。まるで懐かしい友人と再会した気分だ。
 そのまま意気揚々と歩いていた林吾だったが、ふと前方から歩く男女を見ると、「ああっ!」と声をあげる。

「先輩と実臣さねおみ!?
「うわ、林吾……」

 駆け足で近づくと、並んで歩いていた実臣が顔をしかめた。

「おはよう、桃園くん」
「はよっす、先輩! あの……なんで実臣なんかと歩いてるんすか!?
「なんかとはなんだ。俺も、そこで彼女と会ったんだよ」
「あ、グーゼンね。そーゆーこと。ふーん、ならいーや。あ、でも先輩、気をつけてくださいね。噂だと実臣は天然たらしで、来る者拒まず、去る者追わずらしーっすから」
「お前……それどこ情報だよ」

 呆れたように実臣がため息を吐くと、林吾はニシシと笑う。

「わりとしっかりとした情報スジ~」
「ったく。バー経営してりゃ、コミュ力高くて当然だろ」
鷹屋たかやさん、人との距離感を取るのがお上手ですよね」
「ありがとう、 さすが判者はんざさん。今の林吾の言葉を、最大限にいいふうに取ってくれたね。で、林吾、お前は土手に行くのか?」
「おう! そのあと奏一さんと昼飯食うんだ~!」
「雨降ってんのに、ご苦労さんだな」

 休日に、林吾がよく土手で短歌の練習をしていることは、歌詠みの誰もが知っていることだ。しかもそれが、晴れでも大雨でも雪でもだから、恐れ入る。
 林吾いわく「だって奏一そういちさんが言ってたんだ。同じ景色はないんだって」
 つまり彼は奏一の言葉を自分なりに受け止め、いつもと同じ土手で変化を見つけることこそが、修行なのだと考えているようだった。

「じゃあ椿坂まで一緒だな」
「へっへー、先輩と一緒~」
「俺もいるっての」
「椿坂って懐かしい。結倉の人って、なぜか正式名称で坂を呼びませんよね?」
「そうそう、紫陽花あじさい坂とかカラス坂とか」
「すぐそこにタヌキ坂ってのもあるよなー」

 十五年ぶりに戻ったとはいえ、薄っすら覚えている地元ネタに、さきは実臣たちと盛り上がる。
 変わっている場所、変わらない場所……それぞれが入り乱れながら、さきの頭の中に「今の結倉」を構築していく。

「あとさー、今でも幽霊坂は――」

 喋っていた林吾が口を噤んだので、さきは不思議に思って顔をあげた。隣の実臣も黙って周囲を見渡している。ふたりの歌詠みの様子に異変を感じると、さきは本能的に身構えた。

(……霧雨?)

 突然の細かな雨が、世界をけぶらせていく。
 みるみると視界が悪くなり、数メートル先も不確かになった。さすがに驚いて、三人は足を止める。

「こりゃ、ひどいな。傘ささないと濡れるぞ」

 実臣が言うと、ふたりも急いで傘を開いた。

「急にどーしたんすかね、先輩。でもオレがいるんで安心してください!」
「うん、ありがとう」

 さきは少しだけ目を閉じると、息を吸い込む。嫌な感じはしなかった。常夜とこよの扉が開きかけていた、あの重苦しさはどこにもない。たぶん、そういう予兆ではなさそうだ。だが――

(なんだろう、この妙な気配……?)

「立ち止まっててもあれだ。慎重に歩こう」
「そうだな!」

 実臣の言葉にうなずき、さきも林吾も歩き始める。霧雨で見えなくなる前の景色を、さきは頭に思い浮かべた。
 たしか、すぐ目の前に十字路があったはずだ。

「……あれ?」

 十字路に来たと思った瞬間、靴が柔らかなものを踏む。
 コンクリートの硬さではなかった。驚いて足を持ち上げる。靴には枯葉と土がくっついていた。

「え――」

 ふいに霧雨が止み、目の前が開ける。白い カーテンをまるで見えない手で誰かが引いたような手際だった。しかしそんなことよりも、三人は目の前にある景色に言葉なく、呆然とする。
 そこは見慣れた結倉の十字路ではなかった。
 山村とも言うべき、ひなびた、どこかの村だった。

「ど、どうなって……?」

 実臣がまばたきを繰り返しながら、唖然とした表情で呟く。

「ああっ! これってもしかしてもしかするんじゃねーの!? 最近よくある、異世界召喚の!」
「異世界召喚がよくあってたまるか」
「違うって、ゲームとかラノベとかでさ! やばっ。え、まじ!?

 さきは林吾と実臣の会話を聞きながら、周囲を何度も見渡した。やはり結倉には見えない。地面にしゃがむと枯葉を手に取る。感触はとてもリアルだ。夢幻とは思えない。

「先輩、気分悪いんすか?」
「ううん。これ現実なのかなぁって。落ちてる葉を触って、確認していただけだよ。どこだろうね、ここ?」
「ええー……ちょっと落ち着き過ぎじゃないすか、先輩」
「たしかに不思議な場所ではあるけど……」
「そこのお前たち!」

 鋭い声が投げつけられ、さきたちは振り返った。立っていたのは数名の男たち。年は二十代から六十代くらいまでと幅がある。しかし、どの顔もこわばっており、警戒している様子を隠そうともしていなかった。

「あの、すみません、ここは――」
「喋っていいとは言ってないぞ!」

 実臣が声をかけようとすると、ひとりの若者が叫んで遮る。

「待て、そっちの若いのは……」

 年長者らしき老人が林吾を見た。
 そして、何かを確認するようにうなずく。

「うむ、仲間のようだな。なるほど。残りは土産か」
「へ……オ、オレ? 土産?」
「あとのふたりは小屋に閉じ込めておけ」
「おう!」

 さきと実臣は抵抗する間もなく、他の男たちにあっという間に取り囲まれた。現状がさっぱり把握できない。

「待ってください、俺たちは別に怪しいものじゃないですから!」
「ふん、お前たちの話なぞ聞くか! 里に来たからには観念するんだな」

(里……?)

 さきは老人の言葉に引っかかったものの、腕を強く引っ張られ、先を歩かされる実臣同様に、ほぼ引きずられて連れて行かれる。

「い、痛……離してください!」
「おい、先輩を離せ! じいさん、何してんだ! ふたりをどこに連れて行く気だ!」
「んなものは、こっちの事情だ。ほれ、さっさとついてこい」

 林吾の言葉を無視して、老人は道を示す。麓の村まで続いている緩やかな坂道だ。

「先輩! 実臣!」
「どこへ行く」

 ふたりに向かって走ろうとした林吾の腕を、老人は掴んで離そうとしない。林吾も必死に振りほどこうとするものの、どこにそんな力があるのか、ビクともしなかった。

「……う、嘘だろ、なんだよこれ」

 連れて行かれるふたりの後ろ姿が、竹林に消えていく。それをただ、林吾は見送り続ける他なかった。



 舞依まいは【LINER NOTES】の前を通り過ぎようとして、足を止めた。

「あれ?」

 定休日でもないというのにバーは閉まっていた。臨時だろうか。しかしそうだとしても、張り紙ひとつ出さないとは実臣らしくない。
 急な用事か、体調不良か……。せっかく、これから図書館に行って、本を借りたら紅茶を飲みに来ようと思っていたのだが。

「……仕方ないか」
「新館さん」
「あ、佐波さん。こんにちは」
「こんにちは」

 紺色のチェックの傘を差した奏一が、笑顔を向ける。
 しかし舞依と同じように、バーが閉まっていることに気がつくと、怪訝そうに眉を寄せた。

「休み……?」
「そうなんですよ。臨時みたいで」
「珍しいね。何かあったのかな」

 そういえば、と奏一は言葉を続ける。

「今日、林吾と昼ごはんを食べる約束していたんだけど、連絡が取れないんだ。どこの店にするか決めてなかったから、確認しようと思ったんだけど……既読にもならなくて」
「桃園くんが?」

 それもまた妙な話だった。
 何しろ林吾は、奏一を心の師としていることを、結倉中に触れ回っているような子だ。その林吾が奏一と約束をしていて連絡が取れなくなるなど、まず考えられない。
 実臣といい林吾といい、一体どうしたのだろうか。それともこれは単なる偶然なのか。

「……空谷そらたにくんに連絡を取ってみようかな。心配のし過ぎかもしれないけど」
「私も、ミコトにメッセ送ってみます」

 ふたりはそれぞれスマホを手にすると、メールを急いで打ち始めた。
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