異変

「この時期に霧……」

 不思議そうに呟きながら、奏一は夜の道を歩いていた。林吾からの連絡で、結倉に霧が発生していることは知っていたが、会社から戻ってみると想像以上に霧は深かった。
 乳白色と闇が混じるなんとも言えない雰囲気のなか、奏一は慎重に道を歩く。

「あっ……!」

 背後で声が上がった。
 振り返り、辺りを見渡す。ぼんやりとしたものが視界に映った。

「大丈夫ですか?」

 近づくと女性が道端に倒れている。転んだときに割れたガラスで怪我をしたようで、膝から血を流していた。奏一はすぐに上着からハンカチを取り出し、先ほどコンビニで買ったばかりのミネラルウォーターの封を切る。
 手早くハンカチを水に濡らすと、女性に差し出した。

「どうぞこれをお使いください」
「え、そんな。汚してしまいますから」
「構いません、そんなことよりも怪我をなんとかしなければ」

 女性は「すみません」と言うと、奏一の手からハンカチを受け取る。膝は思ったよりも深く切れているようだった。

「失礼ですが、家はお近くですか?」
「いえ……」
「私の家がここのすぐ近くにあります。よければ手当をしましょう。その膝では止血をしないと動かしづらいでしょうから」

 結倉で見かけたことのない女性だったので、奏一は一瞬迷ったが提案をしてみる。案の定、女性は困ったように「でも」と口ごもった。当然だろう。見も知らぬ男性の家に、夜に行くとなれば誰でも用心するはずだ。
 しかし霧も深くなるいっぽうで、すでにふたりの身体はしっとりと水分を含み始めていた。奏一だけ家に戻り、救急箱を持ってくることも考えたが、女性を待たせておくわけにもいかない。

「家に縁側があります。そこで手当をさせてください」

 家に入るわけではないということがわかったのか、女性は少し黙ったあとうなずいた。

「すみません、ご迷惑を……」
「気にしないでください。こんなに視界が悪いと危険ですよね」

 奏一は女性に手を貸すと立ち上がらせ、ゆっくりと歩き始める。
 そして家にたどり着くと女性を縁側に座らせ、自分は急いで玄関から中に入った。救急箱を棚から取り出し、台所で湯を沸かす。居間の明かりをつけて、縁側へと出た。

「おまたせしました」

 消毒液で傷口を丁寧に洗い、大きい絆創膏を貼り付けると、念のため包帯も巻く。

「こんなご丁寧に……」
「歩けないと不安でしょうから。あの、少しお待ち下さい」

 女性に一言声を掛けたあと、奏一は台所へと戻った。温かなほうじ茶を淹れるとお盆に乗せる。

「どうぞ」
「あ、温かい」

 女性の唇に笑みが浮かぶ。

「本当なら家までお送りするのがいいと思うのですが……」

 女性が家の場所を知られるのは、あまりよい気分ではないだろう。
 奏一はスマホを取り出した。

「私のアドレスをお教えします。家に到着されましたらご連絡ください」
「ごめんなさい、その……」

 困ったように女性は視線を揺らがせた。

「私、そういったものを一切持っていないんです」
「あ、そうなんですね」
「お気遣いくださってありがとうございます。こんなに良くしてくださって……おかげさまで落ち着きました」

 そう言うと空になった茶碗を縁側に置き、女性は静かに立ち上がる。

「お役に立てたならよかった。どうかお気をつけてお帰りください」
「はい。それでは」

 女性は何度か振り返り、頭を下げながら門をくぐり抜けていった。その姿が霧の中へ消えるまで奏一は見送ると、茶碗を取り上げる。

「え……」

 思わず奏一は軽く身震いをする。
 女性が握りしめていた茶碗は、夜気に当てられていたとはいえ、驚くくらいヒヤリと冷たくなっていた。



 翌日の土曜日。
 ブランチを食べようと実臣のバーに向かうと、奏一は新作らしいホットサンドウィッチを頼んだ。中身はチェダーチーズにコンビーフ、刻んだピクルスとザワークラウトが入っていた。

「え、なんだと、もういっぺん言ってみろ。女性を家に連れ込んだ?」
「人聞きが悪いよ、実臣。それに家には上げていないと言ったはずだけど」
「お前……せっかくの出会いだってのに」
「怪我の手当をするためだよ。まったく……君はたまに不謹慎だね」
「最近恋愛から遠ざかってる友人を心配してるんだぜ」
「私のことより自分をどうにかすべきじゃない?」

 呆れたように奏一がコーヒーを飲むと、実臣はニヤリと笑う。

「俺よりお前の方が深刻だろ。ほら、あれいつだったっけ。出版のパーティで知り合った子と付き合ってたの」
「……五ヶ月前くらいかな」
「もうすぐ半年だぞ」
「それが?」
「ぼんやりしてたら、一年あっという間ってことだよ」

カウンター越しに身を乗り出し、実臣が真面目な顔になった。

「それとも、まだ吹っ切れてないのかよ?」
「そんなことはないと思う。連絡をしたいとも思わないしね。だいたい最近まで恋愛どころじゃなかったでしょう」
ちょっと・・・・バタバタしてたからな、俺たち」

 ちょっとね、と奏一は苦笑する。

「その手当したっていう子に、怪我の様子はどうか連絡したらどうだ?」
「スマホの類は持っていないんだって」
「へぇ、今どき。古風な感じでお前に合いそう」
「あのね」

 やたらと話を恋愛に持っていきたがる親友から視線を外すと、奏一はコーヒーカップを両手で包み込んだ。

「でもなんだか不思議な人だった。見たことのない顔だったし」
「今度会ったらデートに誘えよ」
「実臣、面白がらないで」
「俺が面白がらないでどうするよ」

 ウィンクする実臣が、ビールサーバーからビールを注ぐ。
 増えてきたお客のざわめきに、奏一は身を沈めるように黙った。



 数日後、ふたつ隣の駅にある映画館へ行こうと、真秀と林吾が歩いていたときのことだった。前方に人だかりがあり、家の脇に救急車が見えた。

「え、なんだあれ。何があったんだ?」
「桃――」

 真秀が止める間もなく林吾が駆け出していく。

「なあどうしたの? 誰か倒れたのか」
「おや、林吾くん」
「あ、野間さん!」

 先月の判者歓迎会で会った野間が、林吾に片手を挙げると手招いた。

「散歩してたら騒ぎが見えてね」
「ここ誰の家? 赤松……知らないなぁ」
「お子さんがふたりいる家だよ。まだ小学校だし、林吾くんは知らないかもね」
「で、何があったの?」

 林吾の質問に野間は肩をすくめる。

「救急隊員の人たちが担架を持って入っていったきりだよ。だから誰もわからないと思う」
「そっか……」
「桃」

 無愛想な声が背後からかけられた。
 林吾が振り返ると、真秀が憮然とした表情で立っている。

「映画、遅れるけど?」
「いやまあ、そうな」
「桃が観たいって言ってた映画でしょ」
「だってさぁ、気になるだろ?」
「別に」

 もともと野次馬根性などない真秀がきっぱりと言うと、林吾は頬をぶっと膨らませた。

「オレは気になる!」
「だろうね」
「とりあえずあと三分ここにいる!」
「三分の理由は?」
「うぐ、ぐぅぅ」

 ふたりが言い合っていると、家の中から救急隊員が出てくる。
 途端に周囲がざわついた。担架に誰かが横たわっている。続けて三十代の女性が飛び出してきた。

「赤松さんの奥さんだ」

 野間が呟く。
 林吾と真秀も黙って、その赤松の妻という女性に数人が声をかける様子を眺めた。しばらくして子どもがふたり、家から出てくる。そのまま三人は救急車に乗りこむと車は発車した。人垣が崩れる。

「う~ん、結局なんだったのかわかんなかった」
「もういい? 行こう」

 真秀の催促に、林吾がうなずきかけたときだった。

「怪物?」

 日常では聞かない単語を耳が拾う。声が上がった方向を素早く林吾が見ると、人垣の中で数名が話し込んでいた。

「さっき奥さんが言ってたの。『主人が何度も言って』って」
「どういうこと? 担架に乗ってたの赤松さんだよね? 怪物ってなんなの?」
「さあ……聞き間違えかもしれないとは言ってたけど。急に言い出して様子が変だと思ったら高熱で、そのまま意識不明になったみたい」
「嫌だわ、何の病気かしら」

 林吾は眉をひそめると真秀を見上げた。

「怪物だって」
「……今日の映画はやめよう」

 それだけ言うと真秀は人混みに背を向けて、さっさと歩き出す。慌てたのは林吾だ。人を掻き分けながら、その後を追う。

「待てって、マホ。映画やめるってなんで?」
「子どもならともかく、大の男が【怪物】なんて言うわけない」
「……ひょっとして、結倉にまた異変が起きてるって言いたいのか?」
「わからない。でも妙な感じがする。だから判者のとこに行く」
「先輩のとこ? やった! あ、不謹慎?」
「どうだろ」

 唇を歪めて真秀は笑うと、さきに以前教えてもらった住所を思い出しながら足を進める。
 単なる杞憂ならばそれでいい。歌合は行っているのだから、結倉が不安定になることはない――はずだ。
 それでも真秀は、その小さな一点をなぜか見過ごせなかった。

「桃、判者に今から行くって連絡して」
「りょーかい!」

 背後からついてくる林吾の騒がしい足音を聞きながら、真秀はそっとため息を吐いた。
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