忍び寄る不穏

 細かな雨が夜の結倉ゆくらを包んでいた。
 奏一はひとり、仕事を終えた帰り道を急ぐ。普段よりも足早なのは、結倉駅に降り立ったときに奇妙な感じがしたからだ。しかし、それがなんなのかはうまく説明ができなかった。いつもより人通りが少ないのは雨のせいなだけかもしれないし、胸が騒ぐのは、終えられなかった業務が気にかかっているだけなのかもしれない。
 いろいろと理由を並べ立てるものの、心はすっきりとしなかった。

「また、霧?」

 傘の隙間から見える白く漂うものに、奏一は足を止める。
 ひた、ひたり。ひた、ひた。

(え――?)

 傘を叩く雨音とは違う、奇怪な音を奏一の耳が拾った。思わず立ち止まり、耳を澄ます。再び、ひたひたと音は聞こえた。
 足音ではまずこんな音は出ない。思い切って振り返った奏一は、目を見張った。

「あなたは……」

 背後に立っていたのはいつか、奏一が膝の手当をした女性だった。ほっとした奏一は女性が傘も差さず、裸足であることに気づいた。

「あの、どうかされ――」
「ごめんなさい」
「え?」

 女性からこぼれた声を聞き返した瞬間、背後に強い衝撃を受ける。
 火花が散ったように、目の前が白く弾けた。痛みに声をあげることもできず、こちらを見つめる女性の足元に奏一はどっと倒れ込む。

(何が、どうな、って――)

 傘が転がり、水たまりに頬を打つ。冷たい。霧がヴェールのように視界を覆う。そこで奏一の意識は真っ黒に塗りつぶされた。
 ――どれほどの時間が経過したのか。
 奏一が目を覚ますと、倒れた場所でないところに身体は横たえられていた。ズキズキと痛む後頭部に顔を歪め、ぼんやりした視界で辺りを見渡す。

「……っ?」

 縄で縛られているわけでもないのに、金縛りにあったみたいに身体が動かなかった。内心で焦りながら、指先で寝かされた場所を触るとつるつるしている。

(これは、コンクリートじゃない……ガラス?)

 判断がつかず眉をひそめていた奏一は、ふいに黒い影に覗き込まれた。ぎょっとして息を呑む。

「待っていましたよ」

 その声に奏一の意識が揺れた。あの女性の声ではない。だがどこかで、この声を自分は聞いたことがある。どこだったか――

「あなたは大事な大事な【鍵】。それまではご不便おかけしますが、ご容赦ください」

 黒い影は名乗りもせず、そのまま自分から離れると奏一の周りを歩きだす。ぶつぶつと何かを呟いていた。状況からしてすでに怪しいことは明白だが、その語感とリズムがさらに不安を掻き立てる。

「……っ」

 声を出そうとしたが掠れた息しか洩れなかった。影は興奮するように徐々に声を荒げ、身振り手振りを大きくしていく。そして最後に両手を空に向かって掲げた。
 いくつかの、まばゆい光の柱が空を貫く。

(これは……)

その光景に奏一は声も出せず、何が起きているかもわからないまま、一面真っ白の世界に包み込まれた。


 ほぼ同時刻、さきは夢の中にあった。
 耳を打つ、規則正しく柔らかな音。それは判者はんざに指名されてから何度も見てきた夢だ。今までは自分がどこにいるのかわからなかったが、今回は違った。
 空に浮かぶ月と雲。その薄明かりに照らされた鳥居。その向こうは暗闇に沈んでいて、よく見えない。

(ここは……)

 かつて、幼い自分が引きずり込まれた場所だとさきは気づいた。しかしさきはその場から一歩も動かなかった。この場所の特異性を考えれば、手招く白い手がなかろうと夢だろうと、動き回るのは得策ではない。
 夢から覚めるのを待つしかないかと思っていると、再び、柔らかな音が響く。

「え……?」

 鳥居が目の前でぐにゃりと歪んだ。慌ててさきはしゃがみ込む。そして気づいた。自分が立っている場所はコンクリートでも土でもなく、光沢のある滑らかな地面であることに。

(嘘、いつのまに――)

 先ほどと違う場所にさきは座り込んでいた。月に照らされた自分の姿までもが、はっきりと足元に映り込んでいる。動揺しながら眺めていると、柔らかな音がさらにはっきりと聞こえ、足元が揺れた。波紋だ。

「これって」

 さきは地面に指先を伸ばした――そこで、目が覚める。
 天井に向かって上げていた片手をぼんやりと眺め、力なく下ろした。少しずつ夢の内容がはっきりとしてきているが、それの意図するものはわからない。ため息を吐くと起き上がった。
 サイドテーブルでスマホが震える。アラームかと思って手にすると、メッセージの着信だった。

「桃園くんだ」

 さきは唇に笑みを乗せ、フリックした。


「あ、せんぱーい! こっちっす! お疲れーッす!」

 実臣の店に向かったさきは、カウンターの椅子から飛び降りた林吾に手を振り返す。朝の林吾りんごのメッセージは「一緒にランチしませんか」というお誘いだった。三回目の歌合も終えて、特に予定もない週末。誘いに乗らない手はない。

「や、判者さん」
「こんにちは、鷹屋さん」

 カウンターの中でフルーツカットをしている実臣に挨拶をしていると、林吾が隣にやってきた。

「先輩、今日の休日ランチのメニューはっすね~」
「お前は店員か」

 実臣の突っ込みにさきがくすりと笑う。

「いーだろ別にぃ。さっき聞いたから覚えたんだっての」
「おーそりゃすごい」
「棒読みすんな!」

 いつもの言い合いをしながら、林吾はさきを椅子へと案内する。カウンターに並んで座ると、メニューを差し出して、あれこれと説明をしてくれた。
 林吾の解説が面白かったせいもあるが、さきはどれにするか散々迷い、ようやく決めると、実臣に向かって顔を上げる。

「鷹屋さん」
「……え? あ、ごめん。決まった?」
「はい……あの、どうかされました?」

 実臣がスマホをズボンのポケットに入れるのを見て、それとなく尋ねる。

「いや、奏一と昨夜から連絡取れなくてさ。ちょい気になっただけ」
「あ、オレも! 奏一さんのメッセ、既読になんねーの」
「お前もか?」

 林吾と実臣の言葉にさきは眉を寄せた。

「今までそんなこと、なかったんですか?」
「あいつはマメだからねぇ。メールが届いてれば、ほったらかしにするなんてことしないんだけど」
「あ、ヤバイ、オレ、わかったかも……今度は奏一さんがタヌキの里に行っちまったんじゃね!?」

 絶対そうだって! と息巻く林吾からさきは視線を外すと、実臣と見つめ合った。

「つまり奏一がタヌキから傘をもらって、差したと」
「そうそう。奏一さんは心優しい人だから!」
「可能性はゼロじゃないが……」
「でも、かくれ里の話は佐波さんも知っているから、もし同じ状況になっても警戒はしそうじゃない?」

 さきがそれとなく言うと、林吾は牛乳の入ったジャーを持ったまま、はっと固まった。

「た、たしかに。奏一さんは慎重な人だ!」
「ったく……とりあえず奏一の話は置こう。返信しないことだって、きっとあるだろ。ごめんな、判者さん、ランチは何にする?」

 話をまとめると実臣はさきに笑いかける。
 そのあとさきは林吾たちと美味しいランチを堪能し、実臣のおごりでプリンアラモードまでごちそうになった。それから夕方前に店を出ると、商店街で夕飯の買い物をし、家へと戻る。
 それはなんてことはない、いつもどおりの休日だった。


 とっぷりとした暗闇の中、さきは空に貼り付けたような月を見上げる。足元に視線を落とすと、月明かりに照らされた自分の姿が、滑らかな地面に映っていた。

「これって」

 さきは地面に指先を伸ばした――そこで、目が覚める。
 天井に向かって上げていた片手をぼんやりと眺め、力なく下ろした。ため息を吐くと起き上がる。
 ふいにサイドテーブルでスマホが震えた。アラームかと思って手にすると、メッセージの着信だった。

「桃園くんだ」

 さきは唇に笑みを乗せ、フリックする。


「あ、せんぱーい! こっちっす! お疲れーッす!」

 実臣の店に向かったさきは、カウンターの椅子から飛び降りた林吾に手を振り返す。

「や、判者さん」
「こんにちは、鷹屋さん」

 カウンターの中で、フルーツカットをしている実臣に挨拶をしていると、林吾が隣にやってきた。

「先輩、今日の休日ランチのメニューはっすね~」
「お前は店員か」

 ふたりが軽く言い合う。
 その瞬間、さきも実臣も林吾も変な表情を浮かべた。

「……待て。これ、前にもあったぞ」
「前っつーか……え、昨日?」
「でも昨日って平日ですよね?」

 三人はそれぞれのスマホの表示を見る。表示は土曜日。つまり昨日は金曜日ということだ。

「気のせいか……?」
「ひょっとしてデジャビュってやつ?」
「三人一緒って怖すぎだろ」

 林吾に向かって実臣は首を横に振った。
 さきは落ち着かなげに視線を店内へ巡らせる。他のお客はいたって普通にランチを食べていた。さきたちが感じている奇妙な感覚に、誰も気づいていないようだ。

「でも……やっぱり昨日は土曜日だったはず。俺は、このフルーツカットをしたぞ」
「そういやそうだな。デザートっつって、オレと先輩にプリンアラモード作ってくれたよな? あれ……昨日だよな?」
「おいおい、どうなってんだ。今の今まで、なんでそれに気づかなかった?」
「先輩が来て、気づいた感じじゃね?」

 ふたりの視線がさきにぎこちなく向く。

「判者さん、俺は今からすごく変なことを言う」

 真剣な眼差しの実臣に、さきはわずかに身を固くした。

「昨日はたしかに土曜日だった。でも今日も土曜日だ。つまり時間が戻ってるってことになる」
「え……」

 絶句するさきの横で林吾がスマホを弄りだした。

「やばいだろ。なあ、これやばいよな? マホたちに連絡する。集合させようぜ!」
「そうだな。そうしよう」

 しかし実臣は自分のスマホを見て、顔をしかめる。

「……奏一、結局、昨日はずっと連絡が取れなかったんだよな」
「てことは奏一さん抜きで集まるのかよ?」
「俺は奏一の家に行ってみる。判者さん、悪いけど、他のみんなが店に来たら状況を説明しておいてくれるかな?」
「わかりました」
「ごめんな。林吾も頼んだぞ」
「おう!」

 実臣がカウンターからバックヤードへと向かうのを見送ると、さきはスツールに腰掛けた。

(時間が戻るってそんなこと、あるの?)

 だが昨日は土曜日だった。林吾の誘いを受けて、バーに来た【記憶】がある。

「先輩、大丈夫っすよ。きっと解決方法があるはずっす。で、ちゃんと元通りになりますって!」
「うん、そうだね」

 パニックにならず、明るくいてくれる林吾を心強く思いながら、さきは他の歌詠みたちを待つことにした。
 みことたちがバーに姿を現したのは、三十分ほどが過ぎてからだった。

「桃、至急ってなに?」
「私たちだけ? 鷹屋さんたちは?」

 真秀と舞依が辺りを見渡す。

「実臣は今、奏一さんとこに行ってる。で、至急の話だけど。今日って土曜日だよな? でも昨日も土曜日だったってこと、お前ら覚えてるか?」
「どういうこと?」

 怪訝な表情でみことが言った。他のふたりも不思議そうな顔をしている。

「自覚なしか。えーと、マホ、昨日は何してた?」
「……家でスケッチしてた。ゼミで課題が出てたからそれを――」

 言い掛けて真秀が口を噤んだ。

「あれ……課題出てたからしなくちゃと思って、さっきもスケッチしてた。え? なんで? 土曜日って今日?」
「ほらぁ! そうだろ? やっぱそうなんだって!」
「何がそうなんだよ」
「土曜がターンしてるんだよ!」

 林吾の言葉に三人が互いの顔を見合わせた。しかし、いつもならすぐに呆れた表情を浮かべるはずが、誰もが微妙な様子で黙っている。発言があまりにも突飛である以上に、それぞれ何かしら身に覚えがあるのだろう。

「ちょっとまだ半分疑ってるんだけど、それで……原因はわかってるの?」

 舞依が恐る恐るといったように口を開いた。

「オレたちも今、気づいたとこだからわかんね。他の人たちは気づいてすらないっぽい。な、先輩?」
「うん……」
「原因を突き止めなくちゃいけないってことか」

 真秀の呟きを聞きながら、さきは唇を軽く噛んだ。

(原因を調べるといっても、手がかりなんて見つかるのかな……どう考えても異常だけど……)

 考え込んでいたさきの頭に、つなの顔が浮かぶ。そうだ、この奇怪な現象も、御神木の神使なら何かしら知っているかもしれないではないか。そう思うと、さきの心は少しだけ明るさを取り戻す。

「私、浮宮神社に行ってくるよ」
「手がかりを探しにっすか? だったらオレも行きます!」
「判者さま、みんなで行ったほうがいいと思う」

 林吾と舞依が言ったときだった。慌ただしい足音と共に、店の入口から人が飛び込んでくる。名前は知らないが、結倉で何度か見かけた男性だった。

「おーい、大変だ。門脇さんが病院に運び込まれたってよぉ!」

 その言葉に店内がざわめく。

「え、門脇さんが? なんで?」

 テーブルに座っていた常連客が男性に声をかけた。

「それが『化け物が』って言ったっきり、高熱で意識不明らしくてさぁ」
「……おいおい、そりゃ赤松さんと同じ症状じゃねぇか」
「そうなんだよ」

(待って、これどういうこと……)

 さきは話をする客たちから視線を剥がすと、林吾を見た。彼もまた怪訝そうに眉をひそめている。

「桃園くん、これっておかしいよね」
「で、ですよね?」
「なんの話?」

 真秀が片眉をあげた。

「や、門脇さんの話。内容もやばそうだけど……【昨日】はあの人、店に来なかったよ」

 林吾が言うと、三人は不思議そうな表情を浮かべたあと、合点したように、軽く目を開いた。

「昨日の土曜日にはなかった出来事なのか」
「だったら、時間が正常に戻ったのかもよ」

 舞依が言うが、しかしそれも確証はない。再び沈黙が訪れる。

「こうしてても仕方ない。判者は浮宮神社に向かって」
「みことくんは?」
「俺は門脇さんの家に行ってみる。周辺で情報くらいもらえるだろ」
「桃もみことを手伝いなよ」
「え~っ、オレ、先輩と一緒がいい!」

 真秀の提案に林吾が不満の声をあげた。

「人に聞くとかそういうの得意でしょ」
「あー、そういうことー。ま、オレは親しみやすいからな~」
「そういうことにしておいていいから」
「おう! って待て、それどういう意味?」
「じゃあ私と空谷さんは判者さまに付き添うね。情報を共有するために、ここに戻ってくることにするでしょ?」

 ふたりのやり取りに、舞依はくすりと笑ったあと言った。

「もちろん。じゃあまたあとで」
「先輩、気をつけてくださいね!」
「うん、みことくんと桃園くんも」

 さきたちは店から出ると、それぞれの場所へと駆け出した。
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