水鏡の儀式

 奏一は、頬に当たる冷たい夜気に軽く身震いをした。意識があったりなかったりを繰り返しているせいか、鉛のように頭と身体が重い。もはや、自分が捕まえられてから、日数がどれほど経ったのかもわからなかった。
 ふいに横たわった自分の視界に、裸足がぼんやり白く浮かんで見える。驚きで肩が軽く揺れた。目の前に現れたのは例の女性だった。

「……どうして」
「…………」
「なぜ、こんなことを」

 乾いた声で奏一が尋ねると、女性は悲しげに瞬きをする。

「あなたはわたしに優しかった。だから……巻き込みたくなかった」
「どういう、意味ですか。何をするつもりですか」
「でも、もう止められない」

 女性はゆらりゆらりと身体を揺らし始めた。

「あなたは【鍵】。もうすぐ常夜の扉は開かれる」
「え……」
「そして――」

 闇に伸び上がるように女性の身体が歪んだかと思うと、額から角を生やした異形の姿に変化(へんげ)する。
 奏一は声も出せず、目の前の、女性だった何かを見つめた。

「産土が、戻る」


 日も暮れたあと、さきたちは実臣のバーに集まっていた。さきが坂で出会った久能たちの話を歌詠みたちにするべきだと思ったからだ。
 つなとさきの前から逃げ去った人物が都鳥である、ということは断定できていなかったため慎重に話したが、聞き終わると同時に林吾が色をなして立ち上がった。

「それほんとっすか! あの古書店のやつらが?」
「落ち着きなよ、桃」
「こんなん聞いて、落ち着いてられっかよ!」
「あのさ、俺、前から少し引っかかってたんだけど」

 真秀は手元のコーヒーカップに視線を落としながら言った。

「古書店の久能さんって、たぶん元歌詠みの久能家だと思う」
「え、元歌詠み?」

 さきが軽く瞬くと、真秀は「うん」とうなずく。

「初代歌詠みの家っていくつかあるけど、全ての家が結倉に留まってるわけじゃない。別に未来永劫、結倉に縛られる義務なんてないから、それはいいんだけど。久能家はかなり力が強い家でさ、でも数十年前に、歌詠みだった人がある日突然、結倉を出ちゃったんだ」
「なんでだよ?」
「俺の、曽曽祖父そそそふ空谷弦昌そらたにつるまさ。あの人が原因だって父親に一度だけ聞いたことがある。弦昌は当時、歌詠みの中で最も実力があるって言われてて、その弦昌との実力差に歌を詠むのをやめたんだって」
「そのやめた歌詠みって、久能さんの曽祖父のことかも。たしか古書店していたけど店を閉めて、結倉を出ていったって、久能さんが言ってた気がする」

 思い出しながら舞依が口にした。

「ますます怪しいじゃん。そんな血筋のやつが戻ってきて、先輩に産土さまのことを言うなんてさ。ぜーったい変だ!」

 への字口になった林吾が入り口へ向かって歩き出そうとする。

「ちょっと桃園くん、どこに行くつもりよ?」

 舞依が声をかけると、林吾は怖い顔をして振り返った。

「決まってんだろ。古書店に行って問い詰めるんだよ。お前、怪しい! って」
「単刀直入すぎるだろ、それ」
「実臣、お前だって気になるだろ」
「そりゃそうだけど」

 カウンターに寄り掛かり、実臣が眉をひそめる。

「でもさぁ、判者さんにそういうこと言えば、怪しんでくれって言ってるようなものじゃないか?」
「私もそう思う……」
「なんだよ、マイまで。でも都鳥とどりってやつのことは聞くしかねーじゃん!」
「ま、その意見は一理あるね」

 頬杖をつきながらみことが言うと、林吾は嬉しそうにニヤッと笑った。

「よく言った、ミコト! んじゃさっそく――」
「おーい、大変だよぉ」

 階段を駆け下りる音と共に店に入ってきた野間が、大きな声を上げる。さきたちだけでなく、店で飲んでいた常連たちもその姿に目を向けた。
 野間は走ってきたのか、汗をかいて真っ赤な顔をしている。

「お、大山さんが倒れて、救急車で運ばれたんだよぉ」
「えっ」
「サイレンが聞こえたからさぁ、もしかしてと思って急いで向かったら……」
「その人も、ひょっとして【怪物】を見たって言ったんですか?」

 真秀が尋ねると、野間はハンカチで額の汗を拭きながら、首を横に振った。

「いや、それはわからない。けど、高熱で意識不明ってことは同じだから、そうかもしれない。ねぇ、これっておかしくない? まさかまた結倉は……」

 不安そうに顔を歪める野間の様子に、店はざわめく。野間はさきたちに近づき、重い溜息を吐き出した。

「判者さまと歌詠みさんたち、どう? 土地神さま、また不安定になっちゃってるの? 常夜から変なの出てきてるのかなぁ?」
「まだなんとも言えないですね。歌合は行ってますから、土地神さまの影響とは思えないんですが」

 実臣が返事をすると、「そうかぁ」と野間は肩を落とす。

「でもさぁ、これでもう三人目だよ」

(たしかにもう三人目だ……あれ?)

 さきは小さな引っかかりを覚え、口元に手をやった。
 けれどそれを捉えようとした瞬間、テーブル席から野間を呼ぶ大きな声が聞こえ、集中がパチンと弾ける。野間はさきたちに片手を上げたあと、のろのろと席へと向かって行った。

「判者さま、どうかした?」
「あ、ううん。なんでもない」

 舞依に首を振ったさきは、隣でスマホに何かを書いているみことに目を向けた。

「みことくん、何をしているの?」
「ちょっと確かめたいことがあって……うーん、やっぱり」

 みことは呟いたあと、スマホをカウンターに乗せる。

「みんな、これ見てくれない?」
「なんだそれ。地図か」

 覗き込んだ林吾が首を傾げた。
 画面に表示された地図に、みことが赤い印をいくつか付けている。

「ここが赤松さんの家。ここが門脇さんの家。それからここが大山さんの家。何かわからない?」

 ひとつずつ赤い印を指差したみことは、真剣な表情をしていた。

「え~? うーん。点を繋げると歪んだ三角形になるとか?」

 頭を掻く林吾の隣で、真秀は眼鏡のブリッジを押し上げた。

「待って、これってまさか」
「空谷さん、気づいた?」
「うん」
「え、なんだよ。教えろって」
「それぞれの家の周辺を見てよ」

 真秀の言葉にさきは目を凝らす。そして赤松、門脇、大山の家の周囲を注意深く見た。

「あ……!」

 実臣と声を上げるのは同時だった。

「神社が……」
「そう。赤松さんの家の横には比斗奈ひとな神社が、門脇さんの家の裏には富垂ふた神社が、そして大山さんの家の前には広末ひろみ神社がある」
「宝具が祀られた神社の近くに住んでる……って偶然?」

 舞依がこわばった表情で言うと、沈黙が降りる。
 みことは静かに首を横に降った。

「偶然じゃないでしょ」


 翌日、やはり土曜日に戻っていたが、さきは林吾のメッセージを受け取ると、すぐに歌詠みたちへ一斉にメール送信を行った。
 そして着替える傍らでトースターにパンを差し入れ、鍋に卵を転がすと、コーヒーメーカーをセットする。身支度を整えるころには熱々のコーヒーと固茹でのたまご、そしてトーストができあがっていた。次々と歌詠みたちから届く返信を眺め、さきは朝食を食べる。
 昨夜みことの発見で、倒れた男性たちの家の近くに宝具を祀った神社があることがわかった。そのことをつなに報告するため、浮宮神社の鳥居前に集合するという約束をしているのだ。流しに食べ終わったお皿とカップを置くと、さきはバッグを持って、玄関へと急いだ。
 約束の時間まで少しあったが、さきが到着してみると、すでに歌詠みたちは勢揃いしていた。いち早くさきの姿を見つけた林吾が、両手を大きく振る。

「おはよーございます、先輩!」
「おはよう」
「これで全員揃ったね。行こう」

 真秀が鳥居をくぐってさっさと階段を登っていく。さきはみんなの顔をそっと確認した。険しい表情ではなかったが誰も喋ろうとしない。

(無理もないよね……こんな状況だもの)

 手水で手と口を洗い清め、さきたちは拝殿に挨拶を済ませてから、御神木のもとへ向かった。

「ちょっと待ってください」

 さきが御神木に手を当てると、空から柏手かしわでが響く。

『おはようございます、判者さま』

 足元に柔らかな光に包まれたつなが顕現した。

「おはよう、つな。今日は報告することがあって来たんだけど、その前に、ひとつお願いがあるの」
『なんでしょうか』
「こんな状況だから、歌詠みのみんなにつなのことを説明したんだ。それで、つなはみんなに姿を現すことってできるのかな?」

 つなはつぶらな目で瞬くと、笏で顎をとんとんと軽く叩く。

『そうですねぇ。できなくはないですが。そんなに由々しき事態ということなのでしょうか。例の時間が戻っているという話に関係するのですか?』
「それはまだわからない……ただ、他にも妙なことが起きているから、異常事態だとは思う」
『ふぅむ』

 はたはたとしっぽを振って考えるふうだったが、つなは小さくうなずいた。

『判者さまがそれを望むということであれば、断る理由もございません。承知いたしました。では』

 小さな手で笏を打ち鳴らすと、周囲の空気がぱちんと弾ける気配がした。その途端、時が止まっていた歌詠みたちが、それぞれ動き出す。

「あれ、判者さん、もう話は終わ――」

 さきの足元にいるつなに気づくと、実臣の言葉はしりすぼみになった。
 狩衣姿の犬を見て、誰もが同じように黙る。

「ええと、この前、みなさんにお話したつなです。御神木の神使の」
『お初にお目にかかります。とはいうものの、わたくしはみなさまが幼きころより知っておりますゆえ、今さらという感はいたしますが』
「犬が喋った……」

 林吾はわずかに身を引いたあと、「ん?」と首を傾げた。

「幼いころから?」
『わたくしは結倉を見守りし御神木の神使。結倉に住まう人々のことで、知らぬことなどございませぬ』

 笏で口を隠したあと、つなが目を細める。

『ですので、林吾さまが先週の英語の試験で、赤点ギリギリだったことも……』
「んなーっ!?」
『ほっほっほ』
「だけど、時間がターンしていることはわからなかったんだよね?」

 真秀が言うと、つなはすぐに笑みを引っ込め、困ったような顔をした。

『まだ戻っておられるのですか……いったい、どうしたことなのか』
「つな、今日は別の話をしに来たの。最近、高熱を出して倒れる人が続出してて……ほら、【怪物】って言葉を残した人がいるって前に話したでしょ? もう三人目なの。それで調べてみたら、倒れた人の家の近くに宝具を祀った三つの神社があって――」
『なんですって?』

 さきの言葉につなの目が鋭さを帯びる。
 そして黙ると、笏をとんとんと叩き始めた。

『そんな馬鹿な……それでは……いや、だがあれは……』
「何か心当たりがあるんですか」

 つなの視線に合わせるために、しゃがみこんだ舞依が口を開く。
 さきたちもつなの動揺した姿に顔を見合わせた。

『時間が戻っていて、宝具を祀った神社の傍で……偶然にしては……』
「おい、だからなんだっての! オレたちにもわかるように説明してくれって!」

 焦れたように林吾が言うと、つなはさきたちを見上げる。しかし何度か口を開くものの、ためらいがちだ。

『……判者さま、覚えておりますか? わたくしが以前、時間を戻らせる方法に覚えがあると言ったことを』
「うん。産土さまの神器を使うってやつだよね?」
『はい。【水鏡】は強固な封印を結倉に施すもの。外からのどんな変化も通さない。結倉を守るという意味では最強の神器でございます。ただしそこには当然、反作用もございます。あらゆる変化を封じるということは、その中では時間の法則も効かないということ。だから封印を施したその日に時間は常に戻る。【時間が戻る】というのは、そういう意味なのです」
「なるほど……」
『そして変化をしない結倉の内部は、世界の理と乖離し続け、徐々にズレた場所になっていくのです』
「なんだかよろしくない響きだな」

 実臣が眉根をひそめると、つなは小さくうなずく。

『よろしくありません。封印を幾望きぼうまでに解かなければ、結倉と常夜が通じる、と言われているほどの強力な儀式なのです』
「えっ」
「ちょ、ちょい待て。キボウってなんだ?」
「陰暦で言う十四日の月のことだよ。満月にほぼ近い」

 林吾の質問に、隣に立っていた真秀が表情を険しくしながら答えた。

「え、それで、その幾望? までに封印をどうにかしないと常夜と通じる? え、なんだそれ! どうして、そんなこえー儀式があんだよ!」
『使い方によっては結倉を外敵から守れる、まこと心強いものでございます。ただしそれだけにリスクを伴うものですし、悪用すれば最悪なこととなる』
「ええええ……」
『わたくしは、産土さまの神社はもうなく、神器も紛失してしまった、だからこの儀式は扱えないものだと思っておりました。ですが……意識不明で倒れた者の近くに宝具の神社があったとなると雲行きがどうにも怪しい』
「どういうこと、つな?」
『時間が戻り続け、理と乖離していく結倉の中で、【陽】の強い場所を穢す。それは常夜と結倉を繋げる助けとなりましょう。そして結倉において【陽】の強い場所といえば、宝具を祀った神社でございます』

 つなの言葉に誰もが、「あっ」という表情を浮かべた。

「産土の神器を誰かが持っている。それで封印を施している。そしてそいつが神社の近くの家に災いを起こし、穢していると言いたい?」

 真秀が言うと、つなは喉の奥で唸る。

『判者さまより聞いた話をつなぎ合わせると、その筋道が通るかと。ですが、産土さまの神社はもうございません。水鏡の儀式は産土さまの神社でなくば……』
「――産土の神社は、ある」

 さきが呟くと、全員の視線が向いた。

「産土の神社は、今でも結倉のどこかにある気がする」
『判者さま……そう確信するものがおありなのでございますか』
「ううん、なんとなくそんな感じがするだけなんだけど……もし、その場所がわかれば、儀式が行われているか確認ができるはず。私、見つけ出してみようと思う」
「待って、判者さま」

 声を上げたのは舞依だった。腕を伸ばし、さきの手を掴む。

「判者さまは産土さまの神社を見つけられるかもしれない。だけど大事なことは、結倉の誰かが封印の儀式を行ったかもしれないってことだわ。しかもそれが本当なら、その人は産土さまの神器を持っていることになる。そして儀式を進めるために、三人の住人を襲って神社の周囲を穢した」
「うん、そうなるね」
「どんな理由にせよ、そんなことをする人がいるなら気をつけなくちゃ。判者さまがうかつなことをするとは思わないけど、何かをするときは必ず、歌詠みの誰かと一緒に行動してほしい」
「舞依ちゃん……わかった。約束する」

 真剣な表情の舞依に、さきはうなずいた。

「判者さん、慎重に事を運ぶのは間違ってないが、時間が戻っていない状態で計算すると、幾望は明日だ」

 スマホのカレンダーを見ながら実臣が言う。

「げ、まじかよ。だったらもう行動するのみってやつじゃん!」
「でも何をすればいいかわからない」

 張り切る林吾の横で真秀が肩をすくめた。

『三つの神社が穢れている状態では、産土さまの神社を探すことはまず難しいでしょう。それぞれの神社の穢れを祓うべきかと。守護する歌詠み衆にあたってもらえばよろしいかと存じます。祀っております宝具の力を借りて、穢れを祓うのです』
「じゃあ比斗奈は私とミコトね。任せて、判者さま」
「俺はひとりか……まあ、きちんとお役目を果たしてくるよ」
「マホ、出動だ! 頑張ろうぜ!」
「わかった」
「みなさん、どうかお気をつけて」

 四人の歌詠みたちに向かって、さきは頭を下げる。

「判者さんはここでつな殿と待っていて」

 実臣が言うと、歌詠みたちはそれぞれの神社に向かうために歩き出す。その後ろ姿をさきが見送っていると、遠慮がちにつなが咳払いをした。

『気になっていたのですが、奏一さまはどうかされたのですか?』
「佐波さんとは、時間がターンする前から連絡がつかなかったの。だから時間が元通りになる前では会えないと思う」
『……それも少し気になりますな。この異常事態で歌詠みのひとりと連絡が取れないとなると、果たして偶然なのかどうか。もし今回の件に奏一さまが巻き込まれているのなら……』

 つなの言いよどむ様子に、さきは心がざわつくのを感じた。

「何か思い当たることがあるの?」
『奏一さまはもしかすると、選ばれたのかもしれないと思ったのでございます』

つなは、真っ黒な目に揺れる光を湛えながら、口を開く。

「水鏡の封印は、悪いようにも使えると先ほど申しました。もし、ある者が常夜と結倉を繋げたい場合は結倉を封印し、陽の場所を穢し、そして人間をひとり捧げればいいのです」
「捧げるって――」
「その者の命が鍵となり、常夜の扉が開かれるのです」
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