ひび割れ始めた世界

 比斗奈ひとな神社に向かったみことと舞依は、鳥居の前で足を止めた。

「これは……」
「なんだろう、すごくいやな感じがする」

 桜や紅葉が季節ごとに楽しませてくれる神社は、いつも来るたびに澄んだ心地になる。しかし今は淀んだ気配が鳥居の向こうから漂っていた。

「行こう」
「うん」

 舞依は軽く唇を噛むと、勢いをつけて鳥居をくぐった。

「新館」

 みことが斜めがけのバッグから、封が開いていない水のペットボトルを取り出す。蓋をねじると、舞依に向かって差し出した。

「手水の水はやめたほうがいい。これ使って」
「ありがとう」

 舞依は両手を差し出し、水で手を洗うと、軽く口もすすぐ。そしてペットボトルを受け取り、今度はみことに差し出した。
 互いに簡略ながらに身を清め、本殿に向かう。人の気配はない。いや、ここに来る途中ですら、誰ともすれ違わなかった。あまりにも静か過ぎる。
 揃って拝殿に挨拶をし、靴を脱いで本殿に向かう。内陣ないじんの前にかけられた御簾みすをそっと上げると、祠に向かって軽く頭を下げ、中に安置された漆の箱をみことが取り出した。真田さなだ紐を解き、蓋に乗せられた札を剥いで開ける。中にあったのは巻かれた状態の古い紙だ。
 みことと舞依は黙ってうなずき合い、そのまま本殿から拝殿へと戻ると、境内を臨むように立った。
 ふいに木箱から淡い霞が溢れ、みことたちの足元に音もなく流れ出す。緩やかに神社の地面を滑って霞は広がった。柔らかな波となり、あっというまに境内を覆い尽くす。

「わが里も春来たるらしあかつきの」
「花とも見ゆる八重霞かな」

 ふたりの声が響き渡った――次の瞬間。
 風が吹き抜けると霞は溶けて消え去り、辺りに立ち込めていた重たい気配は嘘のように拭い去られていた。


 広末ひろみ神社に向かった真秀と林吾も、やはりみことや舞依と同じように、神社の周囲に広がる嫌な気配に苦戦していた。

「うえっ、なんかここらへん気持ち悪くないか?」
「気持ち悪いなんてものじゃないよ。穢れが神社にまで入り込むなんて、ひどすぎる」

 顔をしかめた真秀が本殿の中で箱を手に取る。

「何が怖いって、こんなことになってるのも気づかなかったことだ」
「でも仕方なくね? 時間がターンしてるとか、ありえないじゃん」
「そうだけど。もっと気づくの遅かったらどうなってたか」
「ちゃんと気づいたんだから、よしとしようぜ」
「…………」
「なんだよ?」

 黙って視線を向ける真秀に林吾がたじろぐ。真秀は薄い笑みを口に乗せた。

「そういうとこほんとすごいよね」
「は? 何が?」
「そういうとこも」
「だからなに言ってんのか、わっかんねーって!」
「今はそれより穢れを祓わないと」
「あ、おい!」

 林吾の言葉を無視し、真秀は箱を持ったままさっさと本殿へと戻っていく。しかたなく林吾はその姿を急いで追いかけた。

「じゃ、行くよ」
「おう!」

 真秀が集中するのを確認してから、林吾も目を閉じると深く息を吸った。

「うち絶えて音の聞こえぬ野辺をゆく」
「駒照らしつる十六夜の月」

 林吾が言い終わると同時に、辺りが薄闇に包まれていく。
 箱を持った真秀の手元が仄かな光を放った。中に収まっていた硯はまるで今すすがれたばかりのように濡れていて、その表面に月が歪んだ形で映り込んでいる。
 林吾が空を見上げると、十六夜の月が雲と共に浮かんでいた。

「すっげぇ……」

 境内に光の粒子が降り注ぐ。
それは蛍よりも小さく、火花よりも涼し気な月の光だった。真秀も林吾も息を呑んでその光景を眺めていたが、まるで画面が切り替わるように瞬きをした瞬間、元の境内に戻っていた。
 月もない。夜でもない。林吾が箱を覗くと、乾いた硯があるばかり。

「す、っげぇぇぇぇぇ!」

 神社に林吾の大きな声が響き渡った。


 三つの神社のうち比斗奈神社と広末神社は、宝具の守護者たちによって穢れを祓うことに成功していたが、富垂ふた神社の宝具の守護者である実臣は、四人よりもさらに険しい表情を浮かべていた。
 神社を取り巻く穢れに顔をしかめていたこともあるが、問題なのはむしろ穢れを祓えるかどうかということだった。
 宝具の力を行使する際は守護者が揃った状態が鉄則だ。ひとりが勝手に使ってはいけないという戒めの意味もあるが、宝具は土地神さまが産土うぶすなさまを鎮めるために生み出した神力の込もったもの。人の身に余るというのが主な理由だ。だから守護者ふたりで協力し、力を半分ずつ出し合うべし――ということなのだが。

「奏一、いないからな……ま、弱音言ってる場合じゃないが」

 拝殿から上がると本殿に入り、宝具が収められた箱を手に取る。
 初めて宝具に対面したとき、正直に言うと少しだけ怖かった。普通の人が見ればやたら古そうな筆なのだろうが、実臣からすれば産土を鎮めるために、かつて初代の歌詠みが用いた道具だ。
 しかも先代の守護者曰く「使ったら、すぐに箱の蓋を閉めるように。どこへともなく消えていきそうになるから」と言われたこともあり、滅多なこと以外では開きたくない代物だった。自分の代で紛失しましたなどということがあれば、取り返しがつかない。

「……やるか」

 それでも覚悟を決めて実臣は真田紐を解き、箱を開けると、久しぶりに対面する筆に向かって頭を下げた。息を止め、精神を集中させる。

「雲返す風颯颯さつさつと吹きわたり山時鳥やまほととぎすたびを告げにき 」

 詠み終わると同時に、自分の中から力が抜けていくのを感じた。
 足はふらつき視界が歪む。焦って踏ん張ったもののわずかによろめいて、拝殿の床がギシリと高く鳴いた。

(これ、やばいな。やっぱりひとりじゃ無理か? 宝具が応えない――)

 ひとまず箱に収めるべきかと悩んだときだった。

「――時鳥何思ふらむ風そよ深山みやまにありて誰呼ばふらむ」

 涼やかな声がどこからか聞こえた。
戸惑う実臣の目の前で、箱の筆の穂先は膨れ上がり、雲のように千切れて周囲にたなびき出す。

(宝具が……)

 助力を乞えたことにほっとする半面、声が気になり、実臣は急いで周囲に視線を向けた。だが人影はどこにもない。

「……聞き違いか?」

 目の前に広がる雲海に実臣は独り言を呟いた。
 その――雲の合間に紛れ、境内から抜け出た姿がひとつ。穢れが消えかける神社を見上げて、薄っすら笑みを浮かべてみせた。

「ここからが本番ですよ」

 囁いた人影は振り返ることなく歩き始める。すでに次に行く場所がわかっているかのように。


 富垂神社から人影が去ったころ三つの神社では穢れを祓い終え、歌詠みたちはそれぞれがほっとしながら宝具を箱に収めていた。
 真田紐を慣れた手付きで結ぶ舞依を背後に、みことは境内を見渡す。先ほどの重苦しい気配は八重霞が拭い去ってくれていた。
 よかった、大丈夫そうだ――。
 胸を撫で下ろしていると上空の雲が太陽を遮り、周囲がにわかに薄暗くなる。みことの全身が震えた。背中を駆け上がる寒気に思わず身構える。

「え? 何この気配」

 舞依が同じように緊張した声を上げた。彼女も何かを感じ取ったようだ。
 清浄な空気に満たされていた境内に、再びぞろ嫌な気配が漂い始める。みことは顔を険しくし、舞依を振り返った。

「まだ宝具を仕舞うな。穢れが戻ってる」
「えっ」

 驚きながら、舞依は結びかけていた紐を掴むと勢いよく解いた。


「どーなってんだ、これ!」
「宝具で祓ったのに穢れが……」
「そんなことあんのか!?
「あるみたい、だね」

林吾は難しい表情の真秀を見ると、その手から箱を奪った。

「お前は先輩のとこに戻れ」
「え、なんで?」
「宝具で祓ったのにダメなんて異常だろ。先輩が心配だ」
「だけど……」

 渋る真秀の背中を林吾は片手で思い切り叩く。

「判者さま守んねーでどーすんだ。お前は力が強いだろ。悔しいけど、お前に任せたほうがいいじゃんか。ここはオレがなんとかする!」
「……わかった」

 あまり納得はしていない様子だったものの、真秀は拝殿から降りて靴を履き、鳥居まで走っていく。
 林吾は境内に立ち込める淀みを睨んだ。

「くっそぅ……せっかく祓ったのに。おい穢れ! お前はオレと勝負だ!」


 浮宮むく神社でつなと一緒に待機していたさきは、ふと顔を上げた。結倉を覆っていた妙な気配が、わずかに揺らいだ気がしたからだ。

「つな」
『どうかされましたか、判者さま』
「空気が変わった気がする」
『歌詠み衆が穢れを祓ったのやもしれませんね』
「本当? よかった……! これで産土さまの神社が見つけられるかも。みんなが戻――」
『判者さま!』

 突然さきの言葉を遮り、つなが鋭く叫ぶ。驚いたさきが身を固くすると、背後から腐った臭いの風がどっと吹き付けた。
 よろめくさきの後ろで空間が大きく捻れる。

「なっ……」
『判者さま、逃げて!』

 つなのもう一度の叫びと同時に、身体は捻れへと吸い寄せられた。

「ああっ!?」
『判者さま! この気配……この気配は!』

 つながさきの腕に飛びかかり、必死に引っ張る。しかし力が足りず、さきは歪みに飲み込まれていく。

「つな、逃げて!」
『できませぬ! 判者さまをお守りするのがこのつなの役目……ああぁっ!』
「つな!」

 歪みに触れたつなの全身に、青白い火花がバチバチと音を立ててまとわりついた。

『ぐ、あぁぁっ!』
「だ、誰か……誰かつなを助けて!」

 必死に叫びながら、つなを自分から引き剥がそうと試みる。

「離して! つな!!

 その瞬間、黒い影が自分を覆った。さきははっと身じろぎ、顔を上げようとする。しかしその前に身体は歪みに飲み込まれ、影の正体はわからないまま闇に落下していった。恐怖で全身から汗が噴き出す。思わず目を瞑ると、さきの手をその誰かが掴んだ。

「……っ!」

 固い地面に身体がぶつかる衝撃を覚え、堪らずさきはうめき声を漏らす。息を吸い込めば生臭い匂いが充満していた。

(どうなって――)

 恐る恐る目を開けたさきは息を呑む。暗闇の合間に薄汚れた古い鳥居が見えたからだ。

「ここ……夢の……」
「なんだここは」
「!」

 自分のではない声に驚いて振り仰ぐ。そこには腕を組んだ都鳥とどりが立っていた。

「あなたは……な、なんで」
「これも想定内ってところか? たくみの考えてることはわからんな」

(巧って――久能さんのこと?)

 声が出せずにいるさきに都鳥は唇を歪めて見せた。

「ま、どうであれ、お前を監視していて正解だったってことだな」
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