砕かれた泉

「……野間さん?」

 実臣のバーや結倉の道で何度も会ったことのある野間が、この異様な空間に現れたことに、さきはまず理解が追いつかなかった。それはみことや真秀もそうだったようで、怪訝そうというよりも、ぽかんとした表情に近いものを顔に浮かべていた。

「まったく、あの異形は使い物になりませんね。判者さまを見て激昂した挙げ句に浄化されてしまうとは。ですが――」

 三日月のように目を細め、野間はにんまりと笑う。

「まあいいでしょう。やるべきことはしてくれた。あれがどうなろうと、私の知ったことではない」
「野間さん、なんであんたがここに」

 みことがようやくといった様子で言うと、野間は首を小さく傾げてみせた。

「判者さまをここへお招きしたのは、この私だからです。ああ、長かった! 苦労したんですよ。ええ、もうかれこれ十五年前から計画していたことでしたから」
「なっ……」

 その言葉にみことは顔を青くし、言葉を失う。

「幼きころより判者さまの魂の輝きは、他を圧倒していた。またとない素材・・でした。ゆえに、昇平しょうへいさまが選んだのです。産土さまが復活の際に喰らい、力を補うにえとしてね」

 なんてことはない口調で野間は話すが、さきたちは話の内容に顔をこわばらせた。

「昇平……そうか、やはりお前は私の父と繋がっていたようですね」

 久能の言葉に野間は胸に手を当て、軽くお辞儀をする。

「さようでございます。一度、ここへ訪れた昇平さまが判者さまを見出し、私が十五年前、この産土うぶすなさまの神社にて判者さまにしるしをつけたのでございます」

(ここは、産土さまの神社……!)

 さきの心臓が大きく音を立てた。

「久能さん、どういうことか説明して。なんで野間さんがこんなことを?」

 厳しい表情で真秀が詰め寄ると、久能はため息を吐く。

「野間家というのは久能の分家なんですよ」
「産土復活を望んでおられた昇平さまのお心に添い、私は今まで密やかに活動して参りました。ところが昇平さまは志なかばでご逝去された。そのことを知ったとき、私は泣きに泣きました。昇平さまの無念を思えばそれは自然なこと」

 けれど、と野間は唇に笑みを浮かべる。

「ご子息であるあなたさまが結倉へ戻られた。あの古書店が開かれたのを見たとき、私がどんなに心の内で歓喜したか! それからすぐに私は今回の儀式の着手に取り掛かったのでございます。巧さま、準備はすでに整っております。いつでも常夜の扉を開けられます。あなたさまの一声で!」
「久能……お前、やっぱり」

 みことが久能たちを鋭く睨んだ。久能は軽く腕を組み、野間を見つめる。

「それは父の話でしょう。産土復活? 私はそんなことに興味はないですよ」
「巧さま?」
「わたしは愚父の日記を読んで、ひとりの女の子が困ったことになるとわかったから、それを阻止しに来ただけのこと」
「何を言っているのですか、巧さま。これは昇平さまだけではない、徳富さまからの願いであられるのですぞ!」
「曽祖父も馬鹿なことをしたものです。産土復活などという妄執に取り憑かれたがために、弦昌たちから歌詠みの地位を剥奪され、結倉を追われたのだから」
「え……」

 真秀の驚きの声に、久能はちらりと視線を向ける。

「ああ、君はあれかな? 弦昌の才能との差に失望した曽祖父が、歌詠みを辞めたとでも聞いているのかな。事実はいま言ったとおりだ。身内の恥を晒すようであれだけれどね。徳富の息子であった私の祖父は実に聡明だった。自分の父親の妄執からその身を避け、まったく違う人生を歩んだんだよ。私の父もそうすべきだったのにね」
「巧さま、私は産土の復活と、久能家の歌詠みへの復帰を望んでおります!」
「興味はない――とさっき言ったはずだ」
「ああ……そんな……馬鹿な、何を言っているのですか……!」

 呆然とした声をあげ、野間がその場に跪いた。両手で頭を抱え、前後に身体をゆすり始める。

「駄目だ駄目だ駄目だ。昇平さまのお望みはそうではないのだ。巧さま、どうしてそのようなことを言うのです。久能家が復活しなければ私はこれまでなんのために……」

 は、と顔をあげ、野間が歪んだ笑顔を向けた。

「そうか、巧さまはわかっておられないのですね。産土さまが復活することの大事さを。問題ございません、私があなたさまに示してさしあげましょう。昇平さまの血を分けた巧さまならきっと、きっとご理解くださるはず」

 野間はそう言うと泉に向かって走る。

「歌詠みを四人目としたかったが、しょうがない。巧さま、私と昇平さま、そして徳富さまのお覚悟を御覧ください!」
「何を――」

 久能の言葉を無視し、野間は大きく片腕を振り上げた。袖にでも隠し持っていたのか、二十センチほどの大きい杭が握られている。
 それを見た瞬間、さきの全身が震えた。

「駄目!」

 叫びながら野間に走り寄ろうとする。けれどその前に野間は泉の表面に向かって、杭を打ち付けた。
 ミシ、と嫌な音が響き、鏡のように滑らかだった泉の表面に大きくヒビが入り込む。そのヒビ割れた隙間から真っ黒な闇が勢いよく噴き出した。音を立てて表面が泉の底へ落ちていくと、黒い渦に巻かれて、野間も泉へと沈んでいく。

「野間さん!」

 みことが叫ぶが、野間は恍惚とした表情を浮かべていた。

常夜とこよの扉は開かれる!」
「そんな……」

 青ざめたさきは足元が揺れるのを感じた。それは次第に大きくなり、泉の周囲の地面にも亀裂が入っていく。
 泉から噴出する黒い影がいくつも空へ飛んでいくのが見えた。

「異形か!?
「おい巧、どうなってやがる!」

 焦ったみことと都鳥の声が、周囲の騒がしい音にまぎれて聞こえた。黒い影が空中で勢いよく旋回し、地上めがけて降りてくる。

「……!」

 さきは避ける暇もなく体当たりを喰らって地面に倒れた。風圧と肩に受けた痛みの他に、さきの脳内に細切れになった映像が流れ込んでくる。それがなんなのかわからないまま、さきは呻いた。

「判者!」

 真秀がさきを助け起こす。

「今の、って……」
「なんなのこれ、常夜が開いたわけ?」

 高く唸り声を上げる風と、黒い影が噴き出す泉を見ながらみことが言った。

「いや、常夜の扉が開いたらこんなものでは済まされませんよ。もっと禍々しさに満ちているはず」
「お前の言うことなんて信じられるかよ!」

 苦々しげにみことが言うと、久能は肩をすくめる。

「信じる信じないは勝手ですが、幾望きぼうが昇ってしまえば、どのみち常夜の扉は確実に開かれるでしょうね」
「いったいどうすれば……」
「まずはここから退きましょうか」

 さきに向かって久能はにこりと笑う。

「でもどうやって?」
「もちろん、入った場所から出るんですよ」

 そう言うと久能はさっさと歩き出す。さきとみこと、真秀は顔を見合わせたあと、奏一を抱えて立ち上がり、久能の後を追った。

「信じていいのか……あんなやつ」
「でも産土さまの復活は興味ないって言っていたよ」
「空谷さん、それを信じるのかって話だ」
「復活させる気なら、俺たちはとっくにやられてると思う」

 真秀は久能の背中を見つめた。

「あの人、相当に力がある。俺と同等か……あるいは上かも」
「出るつもりなら早くこちらへ。宇紋うもん、お前はしんがりを」
「わかってるよ」

 鳥居をくぐって出ると、さきたちが吸い込まれた捻じれの部分はまだ浮かんでいた。久能はその前に立ち、何事かを呟いて手を差し込む。そしてそのまま茂みを分け入るように、身体を押し上げて中へと入っていった。

「本当に大丈夫なのか……」
「後が突っかえてる」
「あ、おい、押すなって!」

 まだ疑うみことの背中を都鳥が押しながら、捻じれへと近づける。そのままさきたちはひとかたまりとなって、空間へ押し込まれた。

(う、うわぁぁ!?

 眩い光が稲妻となって渦巻くのを見た瞬間、さきは浮宮むく神社の御神木の前に立っていた。

「あれ、ここって」
『判者さまー!』

 茶色の塊が目の前に飛び上がる。そのままさきの腕にすっぽりとはまり込んだ。

『ご無事だったのですね! よかった!』
「つな! う、うん、どうやら出てこられたみたい。つなは大丈夫?」
『ああ、わたくしのことなど! わたくしは判者さまの大事に役に立てなかった、使えぬ神使でございます!』
「そんなことないよ。一生懸命助けようとしてくれたじゃない。ありがとう」
『判者さまぁぁぁ!』

 泣き出すつなを優しく撫でながら、さきは周囲を見渡す。産土の神社に吸い込まれたときよりも結倉の空は薄暗い。よく見ると、泉から噴き出した黒い影のようなものが、いくつも上空を旋回していた。

「こっちにまで……」
「判者さん、まずは宝具の神社の穢れを祓い、結倉の陽の気を少しでも保つべきだと思いますよ。陰の気が多くなればなるほど判者さんたちに支障が出るでしょうから」

 久能に言われ、さきは黙る。その反応を見て久能はくすりと笑った。

「おやおや、まだ疑われているのですか」
「仕方がないだろ、巧。お前は怪しさ全開だ」
「そうですか? いろいろと忠告をしていただけなんですが」

 そして真秀たちに視線を向けた。

「歌詠みたちはそれぞれの神社に赴いてはいかがですか。あの黒い影が結倉に出てきたことで、祓うために残っている者たちは手こずっていると思いますよ」
「そう、ですね。それぞれ……行きましょうか」

 掠れた声を上げたのは奏一だった。

「そーいちさん、気づいたんだね。でもあなたは動いちゃ駄目だから」

 みことが止めると、奏一は首を横に弱々しく振る。

「歌詠み、としての務め……果たさねば」
「彼がこの中で事態を一番わかっているようですねぇ。宇紋、彼を富垂ふた神社まで連れて行ってあげなさい」
「へいへい」

 都鳥はため息を吐きながら奏一を軽々とおぶった。

「じゃ、行ってくる」
「よろしく頼みましたよ」
「おい! 何を勝手に――」
「君はさっきから食ってかかっていますが、その苛立ちは私に対するものなのかな?」
「……っ」

 冷笑する久能をみことは睨み、無言のままきびすを返して歩いていく。

「判者、俺も神社に向かう。あなたは神使と一緒にいて」

 それから久能を見上げた真秀は、わずかに目を細めた。

「俺たちがいない間に判者に何かあったら許さない」
「力は尽くしますよ」

 あくまでも淡々とした口ぶりの久能から視線を外し、真秀も広末神社まで向かっていく。

(みなさん……)

 産土神社の中でいろいろなことがあった。ありすぎた。それでも考える暇はほとんどなく、やらなければいけないことが押し寄せている。
 さきは胸に広がる鈍痛とも言えない感覚をやり過ごすように、息をゆっくりと吐き出した。
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