遠き日の

 風が唸っているのか、上空を飛び交う黒い影が鳴いているのか、低く、ときに甲高い音がさきの耳に届く。

(これからどうしよう……)

 歌詠みたちが神社の穢れを祓い、また集合するまでにどれくらいの時間が掛かるかわからなかった。少し考えたあと、さきは離れた場所に立つ久能を見た。

「あの、本殿で待ちましょうか?」

 腰かけられる場所を思い出して言うと、久能は唇に薄い笑みを乗せる。

「おや、ご一緒していいのですか」
「……っ」

 さきの微妙な感情を読んだ返事に、思わず言葉が詰まった。

「失礼、少し意地悪でしたね。先ほども言いましたが、今回の産土うぶすな復活については本当に興味がないんですよ。私は生まれたときにはすでに結倉にいなかったので、この土地に対し、なんの感慨も持っていないのでね。だからあなたに害を及ぼすようなことはいたしません」
「…………」
「何より、曽祖父の思想を受け継ぎ、胡散臭いことをしていた父と同じことはしたくはない」

 そこで久能は少しだけ遠い目をする。

「一度だけ、父に連れられて結倉に来たことがあります。いま考えれば、あれは下見だったのでしょう」
「下見……?」
「産土復活のために必要なにえ探しですよ」
「!」

 顔をこわばらせたさきを見て、久能はくすりと笑う。

「ええ、つまり父はそのとき、あなたを見つけたわけです。そして分家で親しかった野間が神隠しを行い、しるしをつけた。贄の者としてね」

 そこで少しだけ久能は黙った。

「産土復活だ、常夜の扉を開くだ、そういったことに私は賛成じゃありませんが、とはいえ、この状況をこれからも維持していくことについては、少々の疑問を感じます」
「どういう意味ですか」
「おや、あなたは泉から噴き出したものがなんなのか、気づいていないのですか」
「え……」

 久能の問いにさきは瞬きをする。

『判者さま!』

 突然、つなが鋭い声を上げた。はっとしたさきは背後からの突風に押され、たたらを踏む。振り返る前に質量のある何かがぶつかってきた。とっさのことで受け身を取れず、さきはそのまま地面に倒れ込む。

『判者さま……!』

 大丈夫と言いたかったが声は出なかった。再び体当たりする何かの衝撃に目の前が点滅する。いくつもの光がスパークし、上と下の感覚がなくなった。

「……!」

 奇妙な浮遊感を覚え、耳元で風が激しく唸る。目の前にひときわ大きな光の塊が迫ったが、しかしどうすることもできず、さきは両腕で顔を覆った。

「つな! 久能さん!」

 恐怖に叫んだ自分の声も聞こえない。何がどうなっているかもわからないまま、さきは光の外へ勢いよく弾き出された。

「え? う、うわぁぁぁ!?

 地面に落ちたさきは、軽く呻きながら目を開ける。
 そこは浮宮神社ではなかった。目の前に見えるのは注連縄が巻かれた木。そして、その下には滾々こんこんと湧く泉があった。

(あ、れ……ここって)

 先ほどまでいた産土神社に酷似していることに、さきは気づく。ただし様相はかなり違っていた。拝殿と呼ばれるものは小ぶりで簡素だったし、周囲は鬱蒼と木々が茂っていてまるで整備されていない。

「つな? 久能さんは……」

 いなくなったふたりを気にかけていると、視界を何かが横切った。反射的に目で追ったさきは軽く瞠目する。それは直衣のうしを着た男だった。抉れた地面に倒れている姿に駆け寄り、腕に抱きかかえようとしている。烏帽子えぼしを被っていないため、男がしゃがむと黒く美しい髪が地面についた。

「誰――」

 さきはぎこちなく辺りを見渡す。するとそこには身体中に怪我を負いながらも、男と同じように装束をまとった者が数名立っていた。

(な、何がどうなって)

『産土』
「!」

 脳内に響く悲しげな声にさきは息を呑む。そして戸惑いながら、最初の直衣の男に目を向けた。よく見れば男の髪は土埃まみれで、周囲で固唾を飲む者たちのように衣はボロボロだった。

『なぜ……なぜだ。産土――』

 再び悲しげな声が響く。男の呼びかけに抱きかかえられた姿が、ほんのわずかに身じろいだ。さら、と微かな衣擦れの音がする。

『あなた……』

 さきの視界からは抱きかかえられた者の姿は見えなかった。しかしか細いながらにも柔らかなその声は、土埃にまみれた空間に清らな空気を一瞬もたらす。しかし――。

『ああ、そなたがこうなったのはわたしのせいなのに……なぜそなたが逝かねばならぬ? わたしでなくそなたが!』

 全身を震わせている男の慟哭が、その空気をあっというまに切り裂く。

『どうしてこうなるまで黙っていた、産土!」
『……傍に……いたかったから』
『馬鹿な!!
『わたしは、少しも、悔いてはおりませぬ』

 男の激情を再び柔らかな声が包み込んだ。開いた花が散る間際、最後の力を手放すかのごとく――それは透き通った優しい響きを伴っていた。

『どうやら、お別れのようです』
『ならぬ……!』
『これも、さだめ――』
『そのようなことは我が認めぬ! そなたはまた必ず戻ってくるのだ! 必ず……!!

 男の声が変わる。ざり、と砂を噛むような感覚だった。

ときぎぬの 恋ひ乱れども我はまつ百代ももよを経てもまかなしき

 歌が聞こえてきた瞬間、さきの心は青色の世界に沈んだ。いや、容赦ない力によって沈められたと言うべきだろう。抗う選択肢も与えられず、泣き叫ぶ男の哀しみにさきは包み込まれる。怒り、混乱、哀願――大切な者を失いかけながらも、必死に希望を繋ごうとする想いに圧倒された。

(待って……)
(このまま、じゃ――)

 どこまでも落ちていくさきの身体は、今や青色から群青へ変わる世界に突入していた。この先は暗い底だ。心のどこかでそう思った。引き返せなくなる。恐怖が心を貫いた。
しかしふいに頼りない光の糸が一本、さきの目の前に垂れ下がる。

 待っている。
 どんなに長い歳月を経ようとも、そなたを待っている。
 だからどうか、どうかこの糸を握りしめてくれ。わたしの想いに――応えてくれ。

 胸に迫る男の願いに、さきの心は喘いだ。

いやをちに呼ばふことなかれうつろなる心はうつろ心砕くな

 けれど、その光の糸の前に白く細い指が伸びる。さきが声を上げる間もなく、野原の花を一本摘み取るように指に糸を絡めると、ふつりと断ち切った。
 指からすり抜けた光の糸は、青い世界にゆらゆらと落ちていき、次第に見えなくなる。

「…………」

 さきは言葉を失った。あれほどまでに乞われた願いを、ためらいもなく断つ歌を詠むとは思わなかったからだ。
男もそう思ったのか、動揺が青い世界に波紋をいくつも生み出す。さきの身体は揺れに煽られ、くるくると回転した。慌ててバランスを取ろうとしても波紋は止まらず、木の葉のようにさきは流されていく。
 引き離される――必死になって手を伸ばした。

「判者さん」
「――っ!」

 大きく身体が震え、さきは瞬きをする。目の前にいたのは久能だった。しかし咄嗟に言葉は出てこない。あくあくと口を動かしても出てくるのは掠れた息だけ。

『判者さま!』

 茶色い塊が勢いよく近づいた。

『ああ、よかった! 突然意識を失われて……わたくし、寿命が百年は縮みました!』
「私、えっと……?」
「あの空間が歪んだところから、黒い影がいくつも出てきたんですよ。それで体当たりをされた判者さんは地面に倒れたんです」
「そう、でしたか」

 久能の説明に返事をしながら、さきはまだボウっとする頭で先ほどのことを考える。産土神社に酷似した場所。ボロボロの姿をした者たちと、それから――。

(産土って、やっぱりあの産土さまなのかな)

 もしそれが本当なら、さっきの光景は過去だろうか。遥か昔の、言霊の神と産土が在ったころ。それも、状況からして産土がお隠れになったときのことだ。

『判者さま、どうされましたか。やはりご気分が悪いのでは?』
「う、ううん、大丈夫。ただちょっと……不思議なものを見た気がして」

 さきはつなに目を向ける。

「つな……あなたは、産土さまと直接お会いしたことはあるの?」
『産土さまとですか』

 少し驚いたようにつなは目を丸くしてから首を傾げた。

『わたくしは、直接はお会いしておりませぬ。当時、まだこの浮宮神社は存在しておりませんでしたから』
「あ、そっか」
『ですが、この神社の御神木の神使となってから、かつての産土さまのお話は聞いたことがございます』
「御神木に?」
『いろいろなお方にでございます』

 にっこりとつなが微笑む。
 具体的にどなたに? と聞きたい気持ちをぐっと堪え、さきは話を進めることにした。

「じゃあ、そのいろいろな方に聞いた話を教えてくれないかな」
『そうですね……今の土地神さまと出会う前は、歌をこよなく愛する、お優しい神さまだったと聞いております。結倉に住まう者たちの前にしょっちゅう姿を現しては、共に歌を詠みあい、楽しんでおられたとか。そのお姿を通りがかった言霊の神が見初められたと、つなは教えられました』
「――しかし言霊の神は荒御魂あらみたま。その猛々しい力こそが本質。ゆえにその強大な力が、土地に生まれし穏やかな神に次第に影響を及ぼした……そうでしたね?」

 久能が言うと、つなは眉を寄せてうなずいた。

『そうです。産土さまは荒御魂の力を身近に置くことで、そのお心を病み、土地や人々に乱暴を揮われるようになったのでございます。何よりの悲劇は、言霊の神の影響であることを、お優しい産土さまが隠し通したことでございましょう。そして毒された産土さまがいよいよおかしいと皆が思ったときには、すでにどうすることもできない状態だったのです』
「そんな……」
『それでもなんとか鎮めようと立ち上がったのが、言霊の神と、特に産土さまと親しくしていた数名の人間でした。彼らは初代歌詠みと呼ばれております。言霊の神と初代歌詠みたちは、陰陽のバランスを失った産土さまを鎮めるのに大変な苦労をされたと聞いております。そのため言霊の神は人間たちに宝具をお与えになり、力を合わせ、ようやく鎮められたのだとか』
「鎮めたあとのことは何か聞いている?」
『産土さまは全ての力を使い果たし、言霊の神の腕の中で儚くなられたと……』
「……産土さまたちの歌のことは?」
『歌?』

 さきの質問につなは不思議そうな表情を浮かべる。

(つなは知らない……? 伝え聞いていないの?)

『判者さま、歌とはなんのことでございますか』
「産土さまがお隠れになるときに、言霊の神さまと交わした歌のこと、なんだけど……」
『そのようなものがあったのでございますか? しかしなぜ、それを判者さまはご存知なので?』

 つなの当然の疑問にさきは口ごもる。さっき気を失っている最中に見たと説明するには、さき自身がまだ確信できずにいた。

「せんぱーい!」

 ふいに離れた場所から大きな声が響く。見ると片手をぶんぶんと振りながら走ってくる林吾と、その背後をマイペースに歩く真秀の姿があった。

「どうやら戻ってきたようですね」
「はい」

 久能に返事をしながら、さきはゆっくりと立ち上がる。ふたりの後ろに見える、手水の横を歩いている姿はみことと舞依だ。このぶんなら実臣と奏一もじきに姿を現すだろう。無事に戻ってきてくれたことにさきは胸を撫でおろす。歌詠みたちの力は信じていたが、姿を見るまではやはり心配だった。

「神社の穢れ、祓ってきたっすよ! やー、オレ大活躍っした! って、お、お前!」

 久能の姿を見たとたん、林吾が拳を握る。

「なんで先輩と一緒にいるんだ!」
「……彼に説明していないのかい?」

 久能が視線を向けると、真秀はしれっとした表情を浮かべた。

「あ、忘れてた」

(絶対に嘘だ……)

 今にも飛びかかりそうな林吾を押さえつつ、さきは久能たちの説明を始める。そのうちにみことと舞依も加わり、最後に実臣と奏一、そして都鳥も戻ってきた。

「――ということだったの」
「は~、なるほど~。でも、アヤシイくないっすか? オレはまだ信じらんないなぁ」

 林吾は疑いの目で久能と都鳥を見る。舞依と実臣は、それぞれパートナーからここに来るまでに話を聞いていたようで、久能の姿を見ても特に何も言わなかった。

「神社の穢れはとりあえず封じたけど、上空の黒い影と産土さまの神社をなんとかしないとな。じゃないとまた穢れが復活するかもしれない」
「なんとかって、あの泉を封印するとか?」

 実臣にみことが問うのを聞きながら、さきは考えた。
 たしかにあの黒い影はなんとかしなければならない。だが、泉を封印すれば済む話なのだろうか。そもそも、あの影はなんなのか。体当たりをされたときに感じた奇妙な感覚も引っかかる。
 何より――。

(産土さまのあの返歌……)

「佐波さん!」

 舞依の慌てた声にさきは我に返った。見れば、奏一が地面に膝をついている。

「おい、奏――」
「そ、奏一さん!!!

 ひときわ大きな声を上げ、林吾が奏一の傍へすっ飛んでいく。

「大丈夫っすか! なんか、めちゃくちゃやつれてません!? あれ!? ていうか奏一さん今までどこに!?!?
「待っ……林……」
「ちょっと落ち着きなよ、佐波さん死んじゃうでしょ」

 奏一をガクガク揺さぶる林吾を引き離し、真秀がため息を吐いた。

「俺たちも境内の穢れを祓って疲れてるんだから、拉致されてた佐波さんはもっと疲弊してるに決まってるでしょ」
「ら、拉致ぃ!?」
「とにかく休ませないと……」

 舞依が心配そうに奏一を見ながら言う。

幾望きぼうの月が昇るまで、まだ少しだけ時間はございます。判者さま、ここはしばし休息を取られてはいかがでしょう』
「そうしたほうがよさそうだね」

 つなの提案にさきがうなずくと、どこかほっとした空気が漂う。
 結局、みんなで奏一の家に行くことになった。一軒家で広いし、奏一はひとりで暮しているため誰かの目を気にする必要もない。奏一のことは都鳥と実臣が交代で背負いながら運んだ。家に到着するまで、ほとんど誰もしゃべらなかった。

「あ~、着いたぁ……!」

 奏一の家の玄関を実臣が開けると、待っていたように林吾が声を上げる。
 部屋に奏一を寝かせると言って、都鳥と一緒に二階へ実臣が消えると、それぞれは庭に面した居間へと向かった。数日間、奏一がいなかったせいか埃っぽく、なおかつ湿っていた。さきはガラス戸を開けて空気を入れ替える。

「……茶でも淹れるか」
「みことくん、私も一緒にやるよ」

 みことに声をかけ、さきは台所へ向かった。
 ふたりでお茶を淹れて居間に戻ると、都鳥と実臣も戻ってきていて、なんとも言えない空気の中で話し合っていた。それぞれの情報が錯綜していて、整理する必要があったからだ。
 久能が話をするときはもっとも不穏な気配が漂ったが、彼は淡々と事情を説明し、都鳥はその背後で口を挟まず、庭先に目を向けていた。
 境内に残り続けて穢れを祓った者たち、そして浮宮神社に向かい、歪みの向こう側にあった産土神社に行った者たちの話も聞き終えると、時計の針は軽く二周していた。ガラス戸の向こう側に目を向けたさきは、橙色と紺色に染まる夕暮れに気づく。

(幾望は明日……)

 月が昇るまでにこの事態を収拾しなければならない。
 空になった湯のみ茶碗を手の中で転がしながら、さきはぼんやりと考えた。話し終えて疲れたのか、歌詠みたちも久能たちもそれぞれ家の中に散らばっていく。
 今日はこのまま全員が奏一の家にいると決めていた。産土神社の泉が割られ、黒い影が結倉で飛び回っている以上、何が起こるかわからない。それに明日になればまた【土曜日】に戻ってしまう。さきといたほうが、すぐに思い出せる。
 茶碗を台所に持っていくために立ち上がったさきは、そのついでに少し歩くことにした。

「みんな、どこにいるのかな……?」


 誰を探しますか?(次ぺージより分かれます)

みことを探す
舞依を探す
実臣を探す
奏一を探す
真秀を探す
林吾を探す
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