影の正体

 翌日、奏一の家で朝ごはんを食べ終えると、さきたちは浮宮むく神社へと向かった。
 薄暗い空に黒い影が飛んでいる。数は昨夜よりまた増えていた。結倉の町には人の気配はなく、どこもかしこも静けさに満ちている。この異様な状況を危惧し、家に閉じこもっているのだろうが、まるで誰もいなくなってしまったかのような不気味さが漂っていた。

(夕方には幾望きぼうの月が空に昇る。その前になんとしても封印を解かなくちゃ――)

 思掛橋を渡り、浮宮神社のある浮島へたどり着くと、さきたちは鳥居をくぐって階段を駆け上がった。島の木々の間から黒い影が時おり飛び出してくる。しかしその影たちを、今は見送る他ないのはなんとも歯がゆかった。

『判者さま』
「つな!」

 御神木の神使はすでにそこで待っていた。さきの姿を認め、頭を下げる。少し離れた場所に空間が捻れた場所はまだ出現していた。
その箇所を見て、さきは目を細める。

「あれ? なんだか……」
「空間がひび割れていますね」

 背後から久能が言った。
 まるでガラスを強く叩いたように、捻れを中心として空間に何本もヒビが奔っている。

「無理矢理に空間が繋げられているせいでしょうか。粉々に砕けたら空間が閉じるのか、はたまた完全に繋がるのかはわかりませんが」
「どっちにしたって急がないと」

 舞依が厳しい表情で捻れた場所を睨んだ。さきはふと気になって久能を見上げる。

「あの、久能さんたちも一緒に行くんですか?」
「正直、手を貸せることはないでしょうが、ここまで来たのなら見届けるべきだと思っていますよ」

 なんてことはないふうに言う久能に、さきは軽く瞬くと、「えっと、お願いします」と小さく頭を下げる。久能の実力は真秀と同等かそれ以上だと聞いた。自分よりもよほど身を守れるだろう。

「そんじゃ行くぜ!」

 気合いの入った林吾の声が境内に響き、それぞれが空間を通り抜けていく。最後にくぐろうとしたさきは、『判者さま』と呼ぶつなの声に振り返った。

『水鏡の儀式で時間が戻る状況、さすがにわたくしにもわかるようになりました。異様な力が結倉を圧迫しております。もしかすると、すでにあらゆることわりが捻じ曲げられている可能性がございます。この先、何が起こるかわかりませぬ。どうか、くれぐれもお気をつけて』
「わかった」

 さきはうなずくと、捻れた空間へ足を踏み入れる。
 淀んだ空気に肌が触れた途端、身体が拒絶反応を示してビクリと震えた。大樹の根本にある泉からは相変わらず黒い影が噴き出し続けている。すでに産土うぶすな神社に入っていた歌詠みたちは、警戒するように泉から離れて立っていた。

「あれをどうにかしなくちゃだけど……」

 みことが呟いた、その瞬間だった。
 飛んでいた黒い影たちが空中で静止し、ぎこちなくねじ曲がる。一、二秒の沈黙があったかと思うと、さきたち目掛けて勢いよく飛んできた。

「う、うわっ!」
「気をつけろ!」

 あちこちで上がる叫びを聞きながら、さきも身構える。

「判者さん、後ろへ下がって!」

 実臣と奏一がさきの前に立ち、黒い影に向かった。
 籠もった音がすぐ近くで響く。目を向けると、都鳥が黒い影に蹴りを回していた。

「宇紋、頑張ってください」
「ふざけるな、巧」

 地面に叩きつけられた影は粉々に砕け、煙のように立ち上って消滅する。騒然となった周囲に状況把握がつかず、さきは視線をあちこちへと向けた。自分が何をすべきなのか、ここに立っていればいいのか、様々な考えが頭をよぎる。

(私もできることをしなくちゃ。まずは影をなんとかしないと……)

 となれば後から後から影が湧いてくる、泉を対処すべきだ。
そしてそのためには――。

「影の正体を突き止める」

さきは飛び交う影から掻い潜るように、身を低くして走り出す。

「判者さま!」
「危ない!」

 誰かが叫んだ。その言葉が耳に届いた直後、さきは背後から衝撃を受けた。あっと思ったときには地面が目の前に近づく。受け身を取ることもできず、腕と顔がほぼ同時にこすれる感覚があった。

「う、ぐっ」

 ヒリつく痛みと頬に当たる小石の硬さに、目の前が軽く点滅する。

「い、たた……え?」

 顔をしかめていたさきは息を呑んだ。いつのまにか頭上いっぱいに、黒い花が広がっていた。その花弁がバラバラと乾いた音を立てて落ちてくる。
 一体これはなんだ? なぜ急にこんなものが出現したのだろう?
 呆気に取られたさきの指先に花びらが触れる。

「さく、ら?」

 驚きと共に別の感覚が指に流れた。それはよく知った感覚で、理解と同時に打ち消しをする。
 そんなはずはない、だが。
 動揺でさきの心臓が強く打った。
 これは――まさかこれは――

「……!」

 突然、鋭く高い音が響き渡る。たまらずさきは耳を塞いだ。
 この嫌な音は――?
 泳いだ視線の先に判別のつかない白い記号が次々と描かれていく。エラーを起こしたパソコン画面のように、繰り返し同じものが綴られていた。しかしその上から降る灰色の雨によって記号は形を崩し、泥のように垂れて消されていく。
 異様な光景に鳥肌が立った。

「先輩、大丈夫っすか!」

 林吾の声がしたかと思うと両腕を掴まれ、さきは抱き起こされる。

(今のは……)

 まだ呆然とした表情のさきを、林吾が心配そうに覗き込んだ。

「うわ、怪我してるじゃないっすか!」
「あ、うん、大丈夫……ただ擦りむいただけ、だから」

 顔と腕に痛みはあったが、それよりも気にかかることがあって、どうしても上の空になってしまう。

「ごめん、桃園くん、私ちょっと……」
「先輩?」

 さきはよろめきながら立ち上がると再び駆け出した。背後から慌てた林吾の声が聞こえたが、さきはひたすら泉を目指す。そして黒い影が噴き出す泉の縁からその【中】を勢いよく覗いた。
 たちまち背後や頭上から影が体当たりをしてくる。なぶられるようにさきの身体はぐらつき、地面にあっという間に引き倒された。
 目の前が激しく明滅する。いくつもの映像が脳内に容赦なく流れ込んできた。

(これって、やっぱり……!)

「何してんだよ!」

 みことの声が聞こえ、黒い影が祓われていく。珍しく怒った表情で彼はさきを睨んでいた。その背後から数名の歌詠みたちが駆けてくる。

「ちょっと、聞いてるわけ?」
「…………」

 しかしさきはみことに答えなかった。脳裏に久能の姿がフラッシュバックする。
 ――これはなんとも哀れな
 あのときの彼の涼やかな声が、どこか寂しげな表情がさきを貫いた。

「……虚ろ」
「え?」
「そういうことだったんだ」
「なに急に。なんなのさ」
「判者さま、大丈夫ですか!」

 近寄ってきた奏一からも心配そうな声が上がる。さきはみんなを見渡し、震えるため息をひとつ吐いた。

「この黒い影は常夜と関係ありません」
「どういうこと?」

 目を丸くして舞依が言う。

「私に体当りした影から、よく知る感覚を受けたんです。真っ黒だったり灰色だったり、色を失っていたけど、あれは……あれは短歌が具現化したものです」
「え、短歌?」
「影は、代々の歌詠みが詠んできた恋の歌なんです……!」

 さきの発言に誰もが黙り、一様に無表情になった。さきの言った内容があまりに突飛すぎて、飲み込めなかったのだ。

「せ、先輩、なに言ってんすか……」

 戸惑いがそれぞれの顔に浮かび始めるのをさきは見たあと、空中で唸りを上げる黒い影に視線を向けた。

「判者、答えて。どういう意味? なんで俺たちの短歌が泉に?」
「それは……」

 真秀の問いかけにさきは口ごもる。

「歌合であなたたちが詠み、判者さまが選んだ恋の歌は、土地神さまのお心を慰めるもの――結倉ではそう伝わってきていたのだろうけど、実態は違ったということでしょうね」

 答えたのは久能だった。

「違う……?」
「土地神は選ばれた恋の歌を、お隠れになった産土へ長きに亘り贈り続けていたということですよ。短歌が泉に溜め込まれていたのはおそらく、この神社で最も力のある場所だから。自然とそこに集まったのでしょうね」
「……っ」

 さきは久能の言葉にうつむき、拳を握りしめる。

「誰にも届かない恋の歌は力があるがゆえに変質し、行き場のなさに怒り、戸惑った。そして泉が壊れたことで、成れの果てたちが一気に噴出した……」
「久能さんは、泉を覗いたときに気づいたんですね」
「ええ、泉の底にあるどうしようもない哀れな短歌たちを。土地神のその嘆きの深さをね」
「どうして――」

 あのとき教えてくれなかったんですかと言いかけたさきは、自分を見つめる久能の眼差しに言葉を飲み込んだ。
 ――あなた自身で気づくべきだ
 久能の目はそう言っていた。

「ちょっと待てよ! 行き場がないって、だって歌は産土さまに贈られてたんだろ!? 届いてないっておかしいじゃん!」

 焦る林吾の声を聞きながら、ああ、とさきの口からはうめき声が洩れる。
 繋がっている、何もかもが――

「届くわけない。だって産土さまはもういないから」

 言葉にするとさきの胸に鋭い痛みが奔った。

「――いやをちに呼ばふことなかれうつろなる心はうつろ心砕くな」

 さきが歌をそらんじると、真秀たちの表情がはっと揺れる。

「判者、それは……」
「産土さまがお隠れになる間際、土地神さまに贈った歌です。産土さまは言っていた。どんなに投げかけようとそれは虚ろだから、わたしをどうか待たないでって」

 わたしが戻ってくることはありません。わたしはもういなくなる・・・・・のです。
 あなたのことがどんなに恋しくても。あなたがどんなにわたしを愛していても。
 それは神でさえ覆せない、この世の摂理。
 ここで、お別れなのです――

「それでも歌を……」
「はい……産土さまが戻ってくることはないとわかっていても、恋しい想いは消えなくて、土地神さまは短歌を贈り続けるのをやめられなかった。その想いがあの泉に詰まっていたんです」
「じゃあ……」

 奏一が放心した表情で囁いた。

「今までの歌合で、土地神さまのお心は慰められていなかった。そういうことなのですか?」
「まったく慰められていなかった、とは思えませんが、結倉の人々が考えているよりも効果は少なかったでしょうね。自らのためにでなく、産土のために土地神は短歌の力を使っていたでしょうから」
「そんな! 歌合を行ってどれだけの月日が経っていると……」

 あまりにも長い歳月を思い、辺りに動揺が広がる。さきは青ざめた歌詠みたちの顔を見渡した。

「つまり私たちは――」

 しかし言いかけたさきの言葉は轟音によってかき消された。
 泉から溢れていた黒い影が激しく渦巻いたかと思うと、あっという間にさきを取り囲む。

「先輩!」

 林吾の叫びが一瞬で遠くなった。驚いて身を竦ませるさきに黒い影が迫る。腕に触れられた途端、身体がまったく動かなくなった。

(え……)

 金縛りのような感覚を必死に解こうとするが、さきの意志とは逆に、足はゆっくりと泉の縁へと向かう。

(身体が……!)

 恐怖に目を見開いたまま泉の底を見下ろした。すると渦から真っ白な手が伸び上がり、さきを手招く。その仕草を見た瞬間、さきの全身から冷たい汗が噴き出した。
 それは見覚えのある手だった。
 十五年前、鳥居の奥から浮き上がった――

(あの手……嫌、だ……嫌だっ)

 必死に抵抗を試みるものの、さきの右腕は意志と関係なく上がり、招く手に手を重ねてしまう。指の冷たさに背中が粟立った。
 真っ白な手はさきの指をゆっくり掴み、難なくさきの身体を引き寄せる。泉に浮かんだ自分の身体に声も出せずにいると、辺りの黒い影はさらに加速し、真っ黒な闇の壁となった。産土神社の景色がたちまち消え、冷たい空気が風となって高く鳴いた。
 周囲がみるみる変わっていく様子に驚いたのはさきだけではない。歌詠みたちも同じだった。そして暗く冷たい空間が広がるのを見て、誰もが顔をこわばらせる。

「ここって歌合の場所?」

 舞依がつばを飲み込みながら言った。
ただし冷たい風、薄暗い空間、並んだ石灯篭はあったが、いつもあるはずの舞台はどこにもなかった。何もかもを飲み込むような真っ暗な空間の奥に、白い注連縄だけが浮かんで揺れている。

「……土地神さま」

 誰かが囁くと、暗がりから冷たい風が吹き付けた。

「くそ、どーなってんだ、これ! オレたち産土神社にいたよな? なんでここに飛ばされてんだ!!
「久能さんや判者が言っていたことが正しいなら、土地神さまは産土神社と繋がっていたことになる。そして泉の底に溜め込んだものを俺たちが知ったから、自分の場所へ呼び寄せたんだ」

 苛立ちを見せる林吾に、真秀は平静さをかろうじて保ちながら言う。この状況がよくないものだからこそ、パニックになるわけにはいかなかった。

「見て、判者さまが!」

 舞依が叫ぶ。その視線の先には、しめ縄の向こう側、黒い影に包まれて意識を手放したさきが浮いていた。

「せ、先輩!」
「おいおい、土地神さま……判者さんをどうするつもりだ。何してんだよ」

 いつもの調子で実臣は言ったが、その声は微かに震える。

「あー、つまり土地神がラスボスってことでいいのか? ウブスナ? ってのはいないんだろ? つーかあのままだとあのお嬢ちゃん、間違いなく闇に飲み込まれるんじゃないのか?」

 都鳥の言葉に瞬く間に空気が凍りついた。

「宇紋……少しはオブラートに包みなさい」
「この緊急時にオブラートなんて使えるかよ」
「野間に泉を割られ、その御心は揺らいだはず。そこへ産土の絶唱を彼女に詠まれてさらに混乱したのでしょう。もしかすると、判者さまを産土と勘違いしているのかもしれない」
「な……そんなのダメだろ! どうすればいい!?

 咆える林吾に久能は冷たく微笑んだ。

「土地神さまを鎮める他に何かありますか?」
「たしかにそうですが鎮めるといっても……」

 まさかこんな展開になるとは――。
 奏一は唸り続ける風を聞きながら、浮かぶさきを見つめた。


 そのころさきは沈められた意識の中で、ちいさな自分の存在だけを感じていた。どこまでもどこまでも落ちていく暗闇に飲み込まれていく自分。動かせない身体は重りでしかなく、厄介でなすすべもない。

(私はこのまま、消える……のかな)

 こぽぽ、と水泡が耳元を通り過ぎていく音が聞こえた。

(なんて暗くて冷たくて、さびしい場所なの)
(ここは――土地神さまのお心)

 産土と土地神の過去を見たときに、一度感じたことがある。あのときは紺色の世界だったが、今はもう青色はどこにも見当たらない。もっと深い、心の底だ。

(愛するものを喪って空いた、土地神さまの大きな大きな、虚ろ)
(どんなに時が経っても、想いは変わらないんだ)

 受け止めきれない。

(自分ひとりでは、お心を――とても受け止めきれない)

 怖い。
 さきの心に恐怖が広がった。もうすぐにでも心は押しつぶされそうだった。
 どうしようもない。どうにもできない。
 見開いた目には暗闇しか映らなかったが、さきは最後の最後に、抗うように息を吸い込んだ。それはほんの僅かな呼吸だったが、膨らんだ胸の中には闇以外の何かがあった。
 それでもさきは死と隣合わせだった。目尻から涙が溢れる。そして想った。ほとんど何も残されていない自分が手に握りしめる、その小さな欠片。
 たったひとりの存在を。


※8月14日に開通いたします

みことED
舞依ED
実臣ED
奏一ED
真秀ED
林吾ED
戻る