たったひとりの (野々上さき)

 真っ白なアナベルと、薄桃色のプレジオサが小山のように咲いている。
 水を多分に含んだ空気。
 ああ、ここは――夢だとすぐに気づく。
 
(この夢を見るのは、ひさしぶりだな……)
 
 私はそのとき五歳で、長く続いた雨がやんだことが嬉しくて、最近仲良くなった友だちと外に遊びにでかけていた。
 前を走る彼が私を振り返る。すでに彼は目の前の坂を登りきろうとしていた。そこを曲がれば長い階段が続く、古くて細い道がある。
 
(あの道は、どこに、続いていたっけ)
 
「こっち。こっちだよ!」
「うん!」
 
 向けられた笑顔に笑い返そうとして、私の顔は凍りついた。彼が駆け出す道の先で、空間が嫌な感じにねじれるのが見えたから。
 そんなのを見るのは初めてだったけど。よくないものだということは、なぜかわかった。
 
 ソッチハ ダメ イッテハ ダメ
 トテモ トテモ コワイモノガアル
 
「――待っ」
 
 手を伸ばす。必死に掴んだ彼のシャツを引っ張った。後ろに身体を倒されて、驚いたように見開いた彼の目が、私を映しこむ。
 反動で今度は私の身体が前に出た。
 たちまち、ねじれた空間に引き寄せられる。
 
「あ……」
 
 コワイ イヤダ
 イヤダ コワイ コワイ
 
 自分の身体が囚われる感覚。引きずり込まれていく恐怖。そんな私を、瞬きもせず、こわばった表情で見つめる友だち。
 手を離さなければ彼まで引きずり込まれる。
 とっさに私は掴んでいたシャツから指を離す。
 そのとたん、繋がっていた糸がぷつんと切れたみたいに、私と彼は遠く引き離された。
 
「――さきっ!!
 
 彼が手を伸ばす。でも届かない。
 私にはもう届かない。
 そして目の前が真っ暗になった。黒くて分厚い闇が私を包むみたいに。
 
 ココカラ ハ オモイダシタク ナイ
 
 夢から逃げようと私はもがく。
 だけど、やっぱり覚めることはできなくて。
 
「ここ、は」
 
 ぼんやりと闇に輪郭りんかくを現したのは、しめ縄のある鳥居とりい
 手入れがされていないのか古くてひび割れている。その鳥居の奥はどこまでも広がる闇――だけど。

!!

  闇に突然、真っ白な手が浮かび上がると、私を手招く。
 ずり、ずりと私の身体が鳥居に向かって勝手に引き寄せられた。後ずさりしようとしても、びくともしない。
 そのうちに鳥居が目の前までやってくる。
 
「……や、だ」
 
 ニゲナクチャ
 ココカラ ニゲナクチャ キット ワタシハ
 
  額から汗が吹き出る。両手で地面をつかもうとする。それでも引きずる力にあらがえない。
 越えちゃ駄目。ここを越えてしまったら。
 
 モウ ワタシハ
 
(――さきっ!!
 
 ふいに、友だちの叫び声が聞こえた気がした。本当に一瞬だけど清らかな風が私の頬をなでる。
 そうだ、しっかりするんだ。五歳の私に、今の私の意識が寄り添う。
 恐怖で震える身体に力を精一杯こめた。
 帰りたい――帰るんだ。
 ここから出たい――そう、出るんだ。
 こんなところにいてたまるか。 絶対に――
 
 「いやだ!!!
 
 叫んだ瞬間、目の前が真っ白になる。
 鳥居の奥から切り裂くようなおぞましい声が聞こえた。
 
「……っ!」
 
 大きく身体を震わすと、突っ伏していた上半身を起こす。
 呆然としたまま周りを見れば、自分の部屋。時計の針は夜中の二十四時を指していた。
 ああ、夢から覚めたんだ。よかった。
 呟きながら、あごに伝う汗をぬぐう。酷い寝汗だ。
 喉がからからで、水を飲みにキッチンへいくと、奈央なおさんはもう眠っているのか電気が消えていた。そういえば明日は打ち合わせがあるから、午前から外出だと言っていたっけ。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで一気に飲み干す。喉を伝う冷たさが心地いい。
 
「いつぶりだろう、あの夢」
「ん? なんだ起きてたのか」
 
 玄関の鍵が開けられる音がして、リビングの扉が開かれた。
 
「……兼也けんやさん」
「…………」
 
 私は一瞬反応に遅れ、兼也さんはそんな私をじっと見つめる。
 
「えっと、おかえりなさい。どうかした?」
「いや、キッチンにいるなんて、腹ペコグマなのかと思ってな」
「違いますー。水を飲んでただけ」
「あ、そう。今から俺は焼きおにぎりと、餃子ぎょうざとアサリの中華スープを作るけど? お前はどうする?」
「うっ」

 途端に私のお腹がきゅるると鳴った。
  兼也さんは小さく吹き出し、スーツの上着をソファにかける。
 
「ほら、食いたいなら手伝え手伝え。おにぎりは握れるだろ?」
「スープだって作れるからね。奈央さんに教えてもらったんだから」
 
 ワイシャツの袖をまくった兼也さんは、冷蔵庫からアサリを取り出し、塩水につけて殻をこすり合わせる。
 
「兼也さん、おにぎりの具はどうする?」
「んー、昆布」
「オッケー」
 
 兼也さんのおにぎりは二個。私は一個。コンロにおいた網に乗せて、じっくりと焼く。
 
「勉強の進み具合はどうだ?」
「覚えることが多くて大変」
「そうか」
 
 私はいま、判者はんざになるため猛勉強中だ。
 あの日、奈央さんからアドバイスを貰ったあと、私は自分の意志で、結倉ゆくらに戻ろうと決意した。
そうと決まれば、することはたくさんある。まずは判者として歌合うたあわせにどう臨むのかという心構えから始まり、儀式の手順、作法を覚えなければならなかった。他にも、今までの歴代の判者たちの判定、その基準。何より骨折りなのは歌詠み衆たちが提出した恋の歌のすべてを暗記する必要があること。
 さすがにすべてを覚えるには時間がないから、ここ十年のものを手始めに覚えてほしい、と先代の判者から指示があった。
 
「今の歌詠みさんとは、うまくやってけそうか?」
「歌を拝見する限りでは、どの方も個性的で会うのが楽しみかな」
「ほう、言うじゃねぇか」
「まあ私が判者として見定めることができるのかっていうのは、また別だけどね。その心配はある……でもお役目を引き受けた以上は頑張りたい」
「お前の気持ちはわかるが、あんま気張っても仕方ないんじゃないか?」
「うん。奈央さんにも最初からうまくはできないってアドバイス受けた。でもさ、それって頑張らなくていい理由にはならないでしょ?」
「そうとも言うが……真面目だなぁ」
 
 兼也さんは冷凍の餃子を鍋に投入すると、手を洗い、私の頭を軽く叩いた。
 
「もしあっちにいって疲れたなーと思ったら、週末はこっちに戻ってきたっていいからな」
「え?」
「結倉に戻ったら帰っちゃ駄目なんて話でもないだろ。忘れるな。お前の家はここにもある」
「……ありがとう」
 
 兼也さんの心遣いが嬉しくて、思わず、ぎゅっと抱きつく。
 
「そうだ。奈央さんが歌詠みだったときの歌も暗記したんだ。その中で、すごく素敵なものがあったよ」

星祭りの黄昏たそがれが降る川べりで
たったひとりの君と出逢った

「…………」
「七夕を題材にした歌だけど、たしか兼也さんと奈央さんが出会ったのも七夕だったよね? ということはこれって……」
 
 黙った兼也さんの顔を覗き込むと、大きな手のひらが私の顔にかぶさってくる。
 
「ニヤニヤすんな」
「あ、照れてるでしょ」
「うるさい。スープやらねぇぞ」
「やっぱり照れてる~」
 
 香ばしい醤油しょうゆが焼ける匂いと、鶏ガラの優しい香り。それから兼也さんの少し照れた横顔が私の心をほどいていく。
 
(私は……大丈夫だ)
 
 あの夢はまた私を追いかけてくるかもしれない。そのたびに、怖くておびえるかもしれない。
 だけど私には闇を照らすひかりもあるから。
 いつでも戻っておいでと呼びかける、ここが家だと教えてくれる、温かな人たちがいるから。
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