花達すべて (野々上さき)

 規則正しいレールの音を聞きながら、座席に腰掛け、景色を眺める。鉄橋を渡ると川べりに木蓮もくれんの並木道が見えた。

「今日まであっという間だったな……」

 膝のカバンを抱えながら呟く。家の最寄り駅まで、奈央なおさんと兼也けんやさんが見送りに来てくれて、手を振ったのは一時間半ほど前。
 今日から私は、結倉ゆくらで生活をする。引っ越しトラックはすでにアパートへと出発していた。

「本当に手伝わなくていいのか?」
「一緒に行ってもいいんだよ?」
「大丈夫だってば、ふたりとも」

 十五年間、一緒に暮らしてきたふたりと離れて暮らす実感はまだ私にはない。それはきっと新しいアパートに到着して、荷物が片付いたらじわじわと襲ってくるだろう。

「何かあれば連絡してこい。カメラ電話だって今はあるしな。俺の子守唄が欲しいときは遠慮するなよ?」
「兼也さんの子守唄は替え歌がひどすぎて、逆に眠れないよ」
「なにぃ」

 私は笑いながら、電光掲示板を見た。
 乗車予定の電車がまもなくホームにやってくる。

「じゃあ行くね」

 自分から言うべきことだと思って切り出せば、兼也さんが手を伸ばし、頭を撫でてくれる。

「気をつけてな」
「うん」
「どんなことがあっても、さきらしく。迷った時は直感を信じなさい」
「……奈央さん」
「いいね?」

 いつもと変わらない大好きな奈央さんの眼差し。だけどこれは元歌詠みとしての、判者はんざへの言葉だ――そう感じた私の背筋は自然と伸びる。

「はい」

 奈央さんは私の返事に、微笑んだ。

歩いても止まってもいい何時いつの日も花達すべて銘々めいめいに咲く

 瞬間、暖かな何かに包まれる。それは春の花を揺らす風。澄んだ空から降り注ぐ陽光ようこう
 私の胸は優しい気持ちでいっぱいになった。

「いってきます!」

 改札を通り、奈央さんたちが見えなくなるまで笑顔で手を振る。
 そして高ぶった感情を落ち着かせるように、 足を止め、にじみかけた涙を拭った―― 。

「次の停車駅は結倉―、結倉です」
「!」

 電車のアナウンスに顔をあげ、カバンの取っ手を握りしめる。だけどそんな私の気合いは、駅に降り立った瞬間に軽く吹き飛んだ。

(この感じは……)

 青空の下、桜がつぼみを膨らませ、駅の線路沿いには菜の花が咲き乱れている。見るからにのどかな海と山に囲まれた町。
 なのに私は改札口から出ると、立ち止まってしまった。町全体を覆う灰色のフィルター……といえばいいのだろうか。他の人に視えているのかはわからないけれど、その重たくよどんだ空気に言葉を失う。

「こんな状態になっていたなんて ……」

 引越し先のアパートへ向かうため、バスに飛び乗った。発車したバスは何人かの乗客を乗せているけれど、どの顔も暗い。灰色のフィルターに包まれて、表情もよく見えなかった。
 鼓動が浅く打つ。
 こんなのは今まで経験したことがない――
 アパートの最寄りのバス停で急いで降りると駆け出した。見上げた空はいつしか薄暗い雲が広がっていて、アスファルトの道に雨が降ってくる。

「うわあ、雨だー」
「家に戻るぞ~!」

 ふいに角から飛び出してきた子どもたちが目に入った。彼らの進もうとする方を、何気なく見た私は息を呑む。

「待って!」
「……え?」

 見知らぬ人に声をかけられ、警戒する子どもたちに私は困ったように笑いかける。

「お姉ちゃん、今日、この近くの【結倉テラス】に引っ越してきたんだ」
「へー」
「あ、道に迷ったとか?」
「えっと、そういうわけじゃなくて……」

 道の先がひときわ黒いフィルターに掛かっているのを確認すると、別の道を指し示した。
 何があるのかはわからない。でもあの道に向かわせちゃ駄目だ。

「そこの道、お姉ちゃん通ってきたんだけど、大きなハチがいたの。刺されると危ないから、あっちの道を通って帰ったほうがいいよ」
「げ! ハチかよ~」
「刺されたら死ぬとか?」
「やばいじゃん、それ!」

 子どもたちは目配せをしたあと、別の道へ駆け出していく。

「ありがと、お姉ちゃん」
「じゃあねー!」
「うん、じゃあね」

 手を振って見送ると、ほっと息を吐いた。今の結倉には、ああいったものが他の道にいくつもあるのだろうか。そこを気づかずに人々が通っているのなら……
 思考を邪魔するように雷鳴がとどろく。驚いて、私は空を見上げた。

「え……」

 黒々とした分厚い雨雲がうずを巻いている。明らかにそれは、通常の天候ではありえない光景だった。瞬時にいろいろなことが頭を駆け巡る。
 自分がなすべきことはなんなのか、自分は本当に何かができるのか。感情がせめぎ合い、膝が震えた。

 ――迷った時は直感を信じなさい

「……奈央さん」

 手を軽く握りしめると唇を引き結び、アパートまで走り出す。
 すでにそこには引っ越しのトラックが到着していて、【結倉テラス】の前に女性が立っていた。大家さんの神谷かみやさんだ。
 結倉で家を探すとき、不動産屋さんから一押しされた管理人が神谷さんだった。部屋ではなく大家さんをプッシュしてきたのが面白かったのもあるけど、実際に会ってみて、この人ならと思えたのが、部屋を決めた理由だ。

「あ、こっちよ~」

 最近、染め物にはまっていると言っていた彼女は、薄緑と淡桃、茶色のグラデーションのスカーフを上半身に巻きつけていた。まるで桜の化身けしんみたいだ。

「こんにちは、神谷さん。今日からどうぞよろしくおねがいします」
「こちらこそ。でもイヤねえ、雨が降ってきちゃって」
「はい。雲も渦巻いてて……」
「え、本当? ……あらヤダ! 何あれ!」

 神谷さんが大きく目を見開き、ぽかんとした表情を見せる。

「異変のひとつかもしれません」
「まあ……」
「それで、こんなことをお願いするのは申し訳ないのですが、今から私、先代せんだいの判者さまのところへ行きたいと思っていて」

 神谷さんには入居する前に、新たな判者になったことは説明済みだった。

「この状況をなんとかするつもりね。それがいいわ。近くのアパートで仲良しの江田さんもね、数日前から謎の体調不良でせってるの。本当に何が何やらで……だからここは任せてちょうだい。私が立ち会っておくわ」

 一気にそう言うと、神谷さんは私に向かって頭をさげる。

「――判者さま、よくぞ結倉へお帰りくださいました。なにとぞよろしくお願いいたします。どうぞお気をつけて、いってらっしゃいませ」
「……」

 彼女のお辞儀を見た瞬間、何かがカチリと音を立てて、はまった。
 判者としての自分が、この町で役割をすでに負っているという事実。そして私が行うべきこと。その覚悟が。

「はい。行ってまいります!」
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