雲の祈り ~空谷真秀エンド~

「ちっくしょう……先輩!」
「桃!」

 林吾が勢いよく前に飛び出すのを、真秀は止めようとした。しかしそれよりも早く林吾は暗闇に突っ込んでいく。
 宙を掴んだ手に真秀は小さく舌打ちをした。林吾はいつも、いつだって目の前のことしか見えなくなる。それが彼のいいところでもあるが、この状況ではあまりに考えなしだ。追いかけようとした真秀は、しかし闇に跳ね返され、背後に転がる林吾の姿に目を見開く。

「も――」

 名前を呼びかけた真秀の目は、暗闇に縫い留められた。
 わずかに揺らぐ闇の中に、この場を圧倒する力――土地神の力を感じたからだ。

「いってぇ……どうなってんだこれ!?
「土地神さまの力が空間全体に働いてるんだ」
「でも先輩を助けねぇと!」
「わかってる」

 闇に向かって手を伸ばし、水平に真秀は切った。

うちわたす 遠方人をちかたひとに 物申す我 そのそこに 白く咲けるは なにの花ぞも

真っ白な光が闇を横切り、空間にそびえる漆黒の壁が一瞬、断ち切れる。その暗闇の奥にさきの姿が現れた。

「えっ」

 驚く林吾の声を後ろに、真秀は切られた空間に飛び込む。

「すげぇ! マホ、ナイス!」

 同じように入ろうとした林吾は、あっという間に閉じた暗闇にぶつかり、再び地面に転がった。

「ほげ!?
「桃園くん、大丈夫!?
「あ、あうぅぅ……な、なんでマホだけ……ずりぃ!」

 舞依に抱き起こされながら、林吾は悔しそうに唸る。

「え、閉じた? ……桃!」

 背後を振り返り、状況に気づいた真秀は何度か壁の向こうに呼びかけた。しかし林吾の声どころか誰の気配も感じられない。
 すぐ向こう側にみんながいると考えないほうがいいのだろうか。
 土地神が生み出す空間ならば、閉じた瞬間には先ほどまでと違う場所にいることだって、あり得るかもしれない――そう結論に至った真秀は足を進めていくことにした。そして闇に沈んでいくさきを見つけると、その傍らへと急ぐ。

「判者」
「…………」

 青白い顔のさきは呼びかけに答えない。
 真秀は慎重に周囲を見渡し、視線をさきのもっと奥――深い闇へと向けた。

「判者をどうするつもり?」

 静かな問いかけに、闇はただ風を唸らせるばかり。真秀はさきへ手を伸ばし、闇に沈む腕を掴んだ。

「判者、起きて。このままじゃ連れて行かれる」
「…………」
「判者」

 力を込めて引っ張るが、闇もさきを沈めようとしていて引き上げられない。いや、むしろ真秀の力より強く、さきの身体は着実に沈んでいた。
 深い場所に意識を取り込まれているのか――
 そこからどう呼び覚ませばいいのか真秀はわからなかったが、他の歌詠みたちがいないこの状況では、自分だけが判者の命綱だ。

「……っ」

 微かに心を揺らした真秀は、さきの頬にぼやけた光が当たっていることに気がついた。視線を上に向けると、浮かんでいたのは白い月。
 ほぼ満月に近いかたちをしている。
真秀が状況を理解するのに数秒と掛からなかった。

「幾望の月」

 浮宮神社に到着したのは午前も早い時間帯だ。本来なら、こんな時間に月は昇るはずもない。だがここは土地神が支配する空間だ。
時間の概念などあってないようなものなのではないか?
もしこの考えが正しいのならば、あの月はフェイクでもなんでもない。封印を解くための刻限は差し迫っているということになる。

「判者!」

 声を荒げた真秀の耳を、地響きの轟きが襲う。

「……っ、今度は何」

眉を寄せながら睨めば、空間にそびえる分厚い石のモニュメントがいつのまにか出現していた。それは二枚隣り合った扉だった。そしてその扉が薄く開き始めている。
冷たい風が真秀に吹きつけ、吐く息を真っ白へと変えた。今まで体感したことのない冷気だ。肌をひりつかせるこの世のものでない風に、真秀の本能は全身に警鐘を鳴らす。

「常夜か」

 幾望の月は天頂を目指し、封印はもうまもなく完成されるだろう。歪みきった理は結倉と常夜を結ぶのだ。あの扉が完全に開いてしまったら、結倉は常夜に飲み込まれる。そしていずれ世界そのものが。
荒々しい風に身体を煽られながら、真秀はさきの腕を引っ張った。

「時間がない。目を覚まして、判者!」

 真秀の指先は凍傷になりかけていた。もはや感覚はないに等しい。それでもさきの腕を離さなかった。
 自分は歌詠みで彼女は判者だから。
 さきは守るべき存在だ。結倉にとって、なくてはならない人だ。

 ――観覧車のてっぺんでお願いをすると、願い事が叶う

 ふいにさきの声がよみがえった。
 観覧車へ乗り込んださきの姿が目の前に浮かぶ。柔らかな昼の光が差し込むゴンドラで彼女は微笑んでいた。どこか遠いところを見る眼差しだった。
 ――ああ、そうだ。
 真秀は思い出す。あのとき、判者と自分は少し似ていると感じたことを。
 力が強すぎて、今でも日常で短歌を詠むことを許されない自分は、幼いころは結界に守られた家から出ることが叶わなかった。
 一方さきは神隠しに遭い、生まれ育った結倉から十五年ものあいだ引き離され、両親と別々に暮らすはめとなった。そして結倉に判者として戻ったいま、産土の贄として選ばれている。

 自分ではどうすることもできないこと。それを「運命」と呼ぶのは容易い。
 同情などは不要だ。そんなものが欲しいわけじゃない。
 誰もが、ままならないものを持っている。課せられたものを背負っていく他ない。それを、不幸だなんて思ったことはない。

「…………っ」

 だが、さきの笑顔に浮かんだ寂しさと優しさの匂いを、真秀は知っていた。
 どうしようもなく理解していた。だからこそ。

「――起きて」

 真秀は冷たい空気に耐えながら、息を大きく吸い込んだ。

「囚われたままでいるな」

 さきには光のある場所にいてほしい。

山の端に雲浮かびけり。万象は、流れ流れて心となりぬ

 歌を詠んだ――という感覚は、あった。
 言葉ひとつひとつに込められた言霊の力も感じていた。
 けれど、今まで詠んだどんなときよりも、真秀は静かな場所に在った。そこは透明で、無音の空間だった。
 世界のあらゆるものが形を失い、本質だけが光り輝いている。そのすべてを真秀は感覚として捉えていた。自分の身体の境界線はなくなり、自分は自分だけじゃなくなり、温かくて冷たくて暗くて光り輝いていた。
 真秀は深い場所へ一気に潜り込む。真っ暗な闇の中、その底にさきが丸まっていた。

「見つけた」

 手を伸ばす。その背中に指先が触れる。
 驚いたのか、さきの身体は震え、顔を上げた。その目に真秀は自分が映っているのが見えた。

 ――あ。

 次の瞬間、目の前は真っ白に変わる。周囲の暗闇は祓われ、真秀の目の前にあったのはどこまでも続く雲海だった。
 果てしない地平線に真秀は軽く瞬きをする。それから腕に抱きかかえたさきを見た。さきも呆然とした表情をしている。

「帰ろう」

 真秀が言うとさきは黙ってうなずいた。
 息を吸った拍子に真秀は意識を取り戻し、土地神のいる暗い空間に座っていた。腕に重みを感じて見下ろせば、さきが軽く身じろぎしている。

「判者」

 さきが薄っすらと目を開けた。

「空谷、さん……」
「おかえり」
「……ただいま、です」

 小さく笑う真秀に、まだ戸惑いを残しながら返事をする。
 けれど辺りに立ち込める冷たい気配に気づくと、落ち着かなげにさきは周囲へ視線を巡らせた。そして開きかけた常夜の扉の前に立つ、仄白い何かに目を留める。怪訝に思うも一瞬、理解すると同時に視界が大きく揺れた。

「土地神さま……」
「……たしかに力を感じるけど」

 さきの視線の先を見た真秀は、慎重に口を開く。白く定まらない形のモヤはゆらゆらと儚げに揺れながら、ふたりの前に浮んでいた。

――金色の雲を統べる者よ

 砂地を滑る、透明で薄い波のような声が響く。さきと奏一の表情は改まったものに変わった。

――そなたの願いが、わたしの心の底まで届き
――その者の心を揺さぶり、目覚めさせ
――わたしもまた優しき雨によって、あの場所から引き上げられた
――歌詠みにふさわしき、歌であった

 モヤは大きく伸び上がり、辺りを包み込んでいく。

「土地神さま、あなたのために何をすればいいですか」

 さきが声を上げるとモヤは揺れた。

――すべきことは為した
――封印は解け、この土地のあるべき姿が取り戻されるであろう
――わたしはしばし眠りにつく

「ま、待ってください!」

 さきは拳を軽く握ると、勇気を出して再び声を上げる。

「私たちが為すべきことはまだあるはずです!」

 モヤは少し沈黙をしたのち揺れた。

――ときおり、産土との思い出に寄せて、わたしに恋の歌を届けよ

「……っ」

 軽く唇を引き結んだあと、さきはうなずいた。

「お届けいたします。今度こそ必ず、あなたに。あなたの心に」

 モヤは波打ちながら大きく分厚い扉に当たった。地響きが聞こえ、開いていた扉が閉じられていく。広がっていくモヤは濃くなり、扉はまったく見えなくなった。それでもさきも真秀も動かず、白い世界が真っ黒な世界を塗りつぶしていくのを見続ける。
 向こう側からまた声が聞こえるのではないか、と思いながら。


 数日後、さきたちは結倉駅のホームに立っていた。
 久能と都鳥を見送るためだ。

「こんなに早くに戻らなくても」
「問題は解決しましたから、いつまでも古書店の店長をしているわけにもいきません」
「……古書店……残念過ぎる」

 舞依ががっかりした様子で肩を落とす。
 暗闇に飲み込まれかけたさきを真秀が助けたあの日――土地神さまの白いモヤに包まれたあと、気づくと御神木の前に全員が立っていた。そして大慌ての様子のつなが空を見上げるよう告げると、結倉の空を飛び回っていた黒い影はあとかたもなく消えていて、細かな光が雨のように町へと降り注いでいた。
 光はしばらくすると止み、幾望の月が昇った夜空だけが残された。

『みなさまが捻れた空間へ入っていかれたかと思うと、しばらくして捻れが消え、そしてあっという間に太陽が昇って沈んでいったのです』

 つなは身震いしながら教えてくれた。

『あらゆることわりを覆す可能性があると判者さまには申し伝えましたが、時間の進みが速まるなど……なんとも恐ろしいことでございます』

 しかし澄んだ音がふいに響き渡り、それと同時に影が次々と消え、光が降り始めたのだと言う。時間の流れが正常に戻ったことを、そこでつなは感じたらしい。

『判者さま、そして歌詠み衆のみなさま、お疲れさまでございました』

 深々と頭を下げるつなの尻尾は、嬉しそうに大きく左右に振れていた。

「そういえば今朝バーに来た常連さんに聞いたんだが、野間さん、途中から階段になってる坂の上で、伸びてるのを発見されたらしい」
「野間さんが! 容態は?」

 思いがけない話にさきは驚き、実臣を見上げる。

「命に別状はないっていうか、病院に運び込まれたけどやたら元気だそうだよ。自分がどうしてそこにいたのか、それ以前のことも忘れてるみたい。あと、ちょっと……性格が変わった、みたいなこと聞いたかな」
「何それ?」
「豪快に笑うキャラになってて、見舞った人がビビってた」

 どうコメントしていいのかわからなかったのか、みことは黙り、そんな彼を見て、実臣も苦笑いを浮かべた。

「なるほど。彼はつくづくラッキーな人間ですね」

 くつりと喉を鳴らして久能が笑う。

「野間が産土神社の泉に目をつけたのは、産土の持っていた【水鏡】に近い存在と化していたせいでしょう。そこで儀式をし、壊せば、常夜の扉を開ける起爆剤になるとおそらく踏んだ」
「水鏡に近い存在……?」

 戸惑うようにさきが尋ねれば、久能は緩く首を傾げた。

「土地神が短歌を長きに亘って投げ入れ続けた泉は、もともと産土神社で力場だった場所だと思います。短歌の力と泉そのものの力が混じり合い、【水鏡】の代用を果たした……と考えるべきかと。結局、宝具の【水鏡】は出てきていませんしね」
「たしかに。変な話だけど、野間さんの目の付けどころは、ある意味まちがってなかったってことか」

 真秀がぼそりと呟く。

「まあ彼の場合、産土の復活を目論んだものの、実際に釣ってしまったのは土地神だったわけですが」
「そういえば私、思い出したことがあるんです。今となっては過ぎたことなんですが……」

 さきが口を開くと、歌読みや久能たちの視線が集まった。

「野間さんが鷹屋さんのバーに来て、三人目に倒れた大山さんの話をしましたよね。あのとき、『あれ?』って引っかかったんです。一人目は結倉が封印される前に倒れたけど、二人目は封印の後だった。翌日になればまた時間がターンして、結倉の人はそれに気づかないはずだから……」
「ああ、そうか。野間さんは【二人目】って言わなくちゃいけなかったのか」

 合点したように実臣がうなずく。

「あの違和感、気づけていれば、こんなことにはならなかったのかなって」
「それはどうでしょう。泉が壊されたことで、あなたたちは土地神の行為を知ることができた。気づかないままでいたら、どうなっていたかわかりませんよ」

 久能がさらりと言うと、「だよなぁ」と意外にも林吾が同意した。

「先輩、やっぱそれは過ぎたことだし、すげー大変だったけど、今回は事実を知れてよかったってオレは思います!」
「桃園くん……」
「ところで判者さま、産土さまは常夜に本当にいないの?」

 舞依の問いかけに、さきは少し黙った。

「お隠れになった神さまは【常夜】でない場所に行くのかもしれないし、あるいは、存在自体が消滅するのかもしれない……でも本当にどうなったかは、私たち人には永遠にわからずじまいな気がしてる」

 ただ、この世に戻ってくることはない。二度と。
 産土は言霊の神に別れの挨拶をしたとき、はっきりとそう告げていた。さきが確信を持てるのは、それだけだった。

「そっか……」

 舞依は少し俯き、黙る。

「なぁ、話を前に戻すけどよ。野間さんの性格が変わった理由って、結局なんだったんだ?」
「ああ……泉にあった恋歌は、空谷くんと判者さんの力によってすべて消えたでしょう? そのとき、野間の心に巣食っていた念も浄化されたのだと思いますよ」
「浄化って……それで豪快おじさんになったってのか?」
「陰気を食われて陽気になった。これをラッキーと言わずになんと言えば?」

 にこりと笑う久能に林吾が呆れたように「うへぇ」と唸った。

「でも、それで野間さんが二度と産土さま復活を考えないなら、いいことだよね」
「先輩、それお人好し過ぎるっすよ! 奏一さんなんて連れ去られてひどい目に遭ったんすよ!」
「私も判者さまと同じ考えだよ、林吾」
「奏一さん、仏っすかー!」
「で、判者さまたちが土地神から聞いた言葉ですが、『しばらく眠る』と言ったんでしたね?」
「はい」

 視線を林吾からさきに戻しながら、久能が言った。隣にいる真秀は身構えたのか、その身体が微かに揺れる。

「いずれ土地神が目覚めたとき歌合はまた必要となる。土地神の御心に囚われていたあなたなら、わたしの言っているこの意味……わかりますね?」
「……はい。土地神さまは、今後も恋歌を所望すると言っていました。歌合はこれからも続いていくでしょう」

 産土を喪失したことで生まれた大きな大きな空洞。土地神のあの悲しみを少しでも埋められるよう、恋の歌を届けねばならない――いや、届けたい。そう思うことは烏滸がましいかもしれないけれど、さきは心の底からそう思った。
 それは五十年、百年……いや、千年かかるかもしれない。

(それでも私たちは――結倉は、土地神さまと一緒に生きていく)

 ホームに滑り込んだ電車に乗って、久能と都鳥は去っていった。さきたちは電車がカーブを曲がって見えなくなるまで見送り続けた。


「お水でよかったですか?」
「うん」

 さきは自販機で買ったミネラルウォーターを真秀に手渡すと、かきつばた公園の中にある東屋に腰掛けた。
 林吾の提案で、実臣のバーにて夕ご飯を食べるという話が決まったあと、集合時間まで解散することになった。そこでさきは、家に戻ろうとする真秀を呼び止めたのだった。

「判者に声を掛けてもらってよかった」
「え?」
「俺も話したいことがあった」
「なんですか?」

 ペットボトルの蓋を開けながらさきが問うと、真秀は手の中のボトルに光を当てる。

「この前のことで体調の変化はないかと思って」
「いえ、問題ないですよ。よく眠れていますし、食欲もいつもどおりです」
「そう。ならいい」

 少しだけ真秀はほっとした表情を浮かべ、さきに視線を上げた。

「あのとき俺は力を加減せずに使ったから。判者に影響があったらと思ってた」
「全力で短歌を詠んだ……ということですか」
「あまり意識はなかったけど。歌を詠んだ瞬間、世界と自分が交わった感じがあったから、たぶん全力だったんじゃないかな」
「え……」
「うん、まあそんな感じ」

 さきを見つけた瞬間、深い闇からどこまでも広がる雲海の上に真秀はいた。土地神の力と自分の力がぶつかる気配もなく、オセロの黒が白へひっくり返されるような、鮮やかな切り替えだった。
 それを気持ちがいい、と微かに思う自分もいる。
 けれど無闇に使う力でもないことは、真秀自身が誰よりも理解していた。

「空谷さん、助けてくださってありがとうございました」
「俺は歌詠みとして務めを果たしただけ」
「それでもです」

 さきが言い募ると真秀は黙る。そしてまたボトルに光を当てて、くるくると回し始めた。足元に七色の光が映っている。

「雲海で判者の目を見たとき」
「…………」
「懐かしいと思った」

 そうとしか表現できない感覚の理由を、真秀はまだ見つけられていない。
 あの一瞬、世界が開けたような自由な気持ち。どこまでも行けそうな、心弾む何か。わかるときは来るだろうか。

「判者」
「はい」
「また、どこか一緒に行こう」
「……ぜひ!」

 東屋からこぼれ落ちる光がさきに降り注いでいる。
 ――光のある場所にいてほしい
 あのときの真秀の強く切ない願いは今、ありふれた日常の中で優しく輝いていた。
戻る