風の誓い ~小鈴みことエンド~

 さきの青白い顔が暗闇に飲み込まれかけるのを見たとき、みことの脳裏には、やばいとかどうしようといった、思ってもおかしくない感情は一切なかった。
 ただ、その光景が十五年前と重なっていた。
 白く小さな手が自分の手を振りほどき、飲み込まれていく。見えているのに届かないという絶対的な事実。あのときの絶望に似た何かが、みことを襲った。
 気づくとみことは勢いよく前に踏み出していた。闇めがけて、そのまま突っ込むような体勢で走る。

「みこと!!

 実臣の叫びが聞こえたが振り返らなかった。時折、体勢を崩しながら、沈みかけるさきに向かってみことは腕を伸ばす。
 闇に突っ込んだ自分の手がさきの腕に触れた。素早く掴む。しかしふたりを引き剥がそうとする力は強かった。掴んだ片腕が震える。気を緩めれば、あっという間に手を離してしまいそうだった。
 さきを引き寄せようとして、みことは歯を食いしばる。さきの顔は白くのっぺりとしていて、生きているようには見えなかった。
 まさかすでに――と嫌な予感がよぎるが、さきの胸はわずかながらに上下している。命は奪われていないのならば、どこか深い場所に意識が囚われているのだろうか。

「起きろ……起きろって!」

 呼びかけるがさきの瞼はピクリとも動かない。
 そのさきの額に、ぼんやりとした光が当たった。怪訝に思ったみことが視線を上げると、頭上に月が浮かんでいる。
 ほぼ満月に近い形を見て、みことの心臓は嫌な具合に打った。

「なんで、まだ午前だろ……」

 腕時計を見れば長針と短針がありえない速さで回っている。ぎょっとして、みことは自分の目を疑った。しかし針は相変わらず回り続けている。

「時間が……なんだよそれ、卑怯だ――う、わ!?

 ふいに冷たい風に煽られ、みことの身体が浮き上がった。吹き飛ばされそうになるのを必死に耐えていると、さきの向こう側に広がる暗闇から地響きが聞こえてくる。重たいものが動いているような、擦れた奇妙な音だった。
 さらに風が冷たさを帯び、みことの吐く息は真っ白に変わる。息が闇に溶けると、みことの前には空間にそびえる分厚い石の壁――いや、二枚隣り合った扉が出現していた。その扉が薄く開き始めていて、隙間から高く唸る凍てついた風が絶え間なく吹いてくる。肌に当たる風はもはや痛みしか与えないが、その中に微かな腐敗臭を感じると、みことは唇を引き結んだ。
 ――あの向こうは
 ――常夜だ
 震える息で、再び目の前は真っ白になる。
 ――扉がすべて開けば
 ――結倉は、世界は。
 全身の毛が逆立ち、たちまち嫌悪感が込み上げた。みことは腕をしゃにむに動かし、さきを強く揺さぶる。

「目を覚ませ! おい!」
「…………」

 目覚めないまま闇に沈んでいくさきに、みことは必死にしがみついた。しかし常夜の冷気によってその指先に霜は降り、徐々に指の力が失われていく。

「くそ、くそっ……!」

 このままじゃ――
 またあの繰り返しになるのは、ごめんだった。風に弄ばれながらもみことは息を吸い込んだ。

「俺は、こいつを絶対に離さないぞ! 誰が、離すかっ!」

 誰に向かって叫んでいるのか、みこと自身もよくわかっていなかった。
 けれど、どこまでも広がる空間と、開き始める扉を前にどんなに虚しく響こうと、声を上げない理由はなかった。

「連れて行くなら俺も連れて行け!!

 連れて行かれた者の恐怖はわからない。だが取り残された者の悲しみも、まだみことの胸にあった。
 今度こそひとりにしない。

「するかよ!!

 声の限りに叫んだみことの身体を、常夜からのものとは違う風が取り巻いた。それは淡い金色をしていて、渦を巻きながらみことの周囲を巡る。
 凍りかけた唇からこぼれる息を吐きながら、みことはさきを見つめた。

「戻ってこい! こっちだ!」

まるで集合の演算 限りある時間のなかできみと出会った

 みことの歌は風に乗って、みこととさきを中心に円状に広がっていく。幾重にも増えていく金色の風が、周囲の闇を押し戻す。沈んでいたさきの上半身は浮き上がり、みことの足元に伸びた暗がりも取り払われていった。
 腕に力を込めて、みことはさきを引き寄せる。

「目を覚ませ、さき!」

 ――さき!!

 ふいに身体を強く揺さぶられる感覚に、さきは驚き、身を震わせる。縮こまって硬くなっていた四肢が解けた。

(これ、は)

 なんの変化もないこの場所に、何かが起きている。動揺するさきの頬を何かが撫でた。
 風だ。
 理解した瞬間、澄んだ空気が肺に流れ込み、痛みが奔る。それは泣きたいくらい切ない感覚だった。

(抜け出せる?)
(私は、ここから――)

 力強い風が全身に当たり、さきは宙へと打ち上げられる。
 怖がらなくていい、身を任せればいい。風はそう伝えるようにさきの背中を押し続ける。そのままぐんぐんと昇っていくと、金色の光が天井にたゆたっていた。
 あれに掴まれば抜け出せる――さきは光に向かって腕を伸ばした。
 すると光は目の前で形を変える。

「え……」

 それは小さな男の子の姿だった。少年は必死になって、さきに手を伸ばしている。
 誰だか理解したさきは唇を震わせた。

「あ、あ……」
『さき!!』

 小さな指先にさきの指先が触れる。ぎゅっと掴まれると、さきも同じだけ力を込めた。真っ白な光が全身を包み込む。
 眩しくて目をつぶったさきは、瞼の裏の光が収まるとそっと開いた。ぼんやりとした輪郭が徐々にみことの姿に変わる。唇を引き結び、必死な表情を浮かべながらみことは自分を見下ろしていた。

「みこと……くん」
「――よかった」

 みことが震えるため息を吐く。
 さきは状況がわからず、呆然としながら視線を動かした。

「私、さっきまで土地神さまの心にいたはず」
「…………」
「暗くて冷たくて、何もなかった。とても……哀しい場所だった。でも、風が吹いたの」
「うん」
「そしたら光が――みことくんになった」
「え?」
「ちいさな、みことくんが……手を」

 さきの目から涙が溢れる。

「ありがとう……助けてくれて」
「うん」

 みことの指先が伸び、さきの目尻の涙を拭う。照れたようにさきは身じろぎをしたが、不思議な気配に気がつくと、みことの腕から起き上がった。
 開きかけた常夜の扉の前に立つ、仄白い何かにゆっくりと目を留める。

「……土地神さま」
「あれが?」
「うん」

 みことは警戒するようにさきの腕を強く握りしめる。白く定まらない形のモヤは儚げに揺れながら、ふたりの前に浮かんでいた。

――金色の風をまとう者よ

 砂地を滑る、透明で薄い波のような声が響く。さきとみことの表情は改まったものに変わった。

――そなたの願いが、わたしの心の底まで届き
――その者の心を揺さぶり、目覚めさせ
――わたしもまた強き風の思いによって、あの場所から引き上げられた
――歌詠みにふさわしき、歌であった

 モヤは大きく伸び上がり、辺りを包み込んでいく。

「土地神さま、あなたのために何をすればいいですか」

 さきが声を上げるとモヤは揺れた。

――すべきことは為した
――封印は解け、この土地のあるべき姿が取り戻されるであろう
――わたしはしばし眠りにつく

「ま、待ってください!」

 さきは拳を軽く握ると、勇気を出して再び声を上げる。

「私たちが為すべきことはまだあるはずです!」

 モヤは少し沈黙をしたのち揺れた。

――ときおり、産土との思い出に寄せて、わたしに恋の歌を届けよ

「……っ」

 軽く唇を引き結んだあと、さきはうなずいた。

「お届けいたします。今度こそ必ず、あなたに……あなたの心に」

 モヤは波打ちながら大きく分厚い扉に当たった。地響きが聞こえ、開いていた扉が閉じられていく。広がっていくモヤは濃くなり、扉はまったく見えなくなった。それでもさきもみことも動かず、白い世界が真っ黒な世界を塗りつぶしていくのを見続ける。
 向こう側からまた声が聞こえるのではないか、と思いながら。


 数日後、さきたちは結倉駅のホームに立っていた。
 久能と都鳥を見送るためだ。

「こんなに早くに戻らなくても」
「問題は解決しましたから、いつまでも古書店の店長をしているわけにもいきません」
「……古書店……残念過ぎる」

 舞依ががっかりした様子で肩を落とす。
 暗闇に飲み込まれかけたさきをみことが助けたあの日――土地神さまの白いモヤに包まれたあと、気づくと御神木の前に全員が立っていた。そして大慌ての様子のつなが空を見上げるよう告げると、結倉の空を飛び回っていた黒い影はあとかたもなく消えていて、細かな光が雨のように町へと降り注いでいた。
 光はしばらくすると止み、幾望の月が昇った夜空だけが残された。

『みなさまが捻れた空間へ入っていかれたかと思うと、しばらくして捻れが消え、そしてあっという間に太陽が昇って沈んでいったのです』

 つなは身震いしながら教えてくれた。

『あらゆることわりを覆す可能性があると判者さまには申し伝えましたが、時間の進みが速まるなど……なんとも恐ろしいことでございます』

 しかし澄んだ音がふいに響き渡り、それと同時に影が次々と消え、光が降り始めたのだと言う。時間の流れが正常に戻ったことを、そこでつなは感じたらしい。

『判者さま、そして歌詠み衆のみなさま、お疲れさまでございました』

 深々と頭を下げるつなの尻尾は、嬉しそうに大きく左右に振れていた。

「そういえば今朝バーに来た常連さんに聞いたんだが、野間さん、途中から階段になってる坂の上で、伸びてるのを発見されたらしい」
「野間さんが! 容態は?」

 思いがけない話にさきは驚き、実臣を見上げる。

「命に別状はないっていうか、病院に運び込まれたけどやたら元気だそうだよ。自分がどうしてそこにいたのか、それ以前のことも忘れてるみたい。あと、ちょっと……性格が変わった、みたいなこと聞いたかな」
「何それ?」
「豪快に笑うキャラになってて、見舞った人がビビってた」

 どうコメントしていいのかわからなかったのか、みことは黙り、そんな彼を見て、実臣も苦笑いを浮かべた。

「なるほど。彼はつくづくラッキーな人間ですね」

 くつりと喉を鳴らして久能が笑う。

「野間が産土神社の泉に目をつけたのは、産土の持っていた【水鏡】に近い存在と化していたせいでしょう。そこで儀式をし、壊せば、常夜の扉を開ける起爆剤になるとおそらく踏んだ」
「水鏡に近い存在……?」

 戸惑うようにさきが尋ねれば、久能は緩く首を傾げた。

「土地神が短歌を長きに亘って投げ入れ続けた泉は、もともと産土神社で力場だった場所だと思います。短歌の力と泉そのものの力が混じり合い、【水鏡】の代用を果たした……と考えるべきかと。結局、宝具の【水鏡】は出てきていませんしね」
「たしかに。変な話だけど、野間さんの目の付けどころは、ある意味まちがってなかったってことか」

 真秀がぼそりと呟く。

「まあ彼の場合、産土の復活を目論んだものの、実際に釣ってしまったのは土地神だったわけですが」
「そういえば私、思い出したことがあるんです。今となっては過ぎたことなんですが……」

 さきが口を開くと、歌読みや久能たちの視線が集まった。

「野間さんが鷹屋さんのバーに来て、三人目に倒れた大山さんの話をしましたよね。あのとき、『あれ?』って引っかかったんです。一人目は結倉が封印される前に倒れたけど、二人目は封印の後だった。翌日になればまた時間がターンして、結倉の人はそれに気づかないはずだから……」
「ああ、そうか。野間さんは【二人目】って言わなくちゃいけなかったのか」

 合点したように実臣がうなずく。

「あの違和感、気づけていれば、こんなことにはならなかったのかなって」
「それはどうでしょう。泉が壊されたことで、あなたたちは土地神の行為を知ることができた。気づかないままでいたら、どうなっていたかわかりませんよ」

 久能がさらりと言うと、「だよなぁ」と意外にも林吾が同意した。

「先輩、やっぱそれは過ぎたことだし、すげー大変だったけど、今回は事実を知れてよかったってオレは思います!」
「桃園くん……」
「ところで判者さま、産土さまは常夜に本当にいないの?」

 舞依の問いかけに、さきは少し黙った。

「お隠れになった神さまは【常夜】でない場所に行くのかもしれないし、あるいは、存在自体が消滅するのかもしれない……でも本当にどうなったかは、私たち人には永遠にわからずじまいな気がしてる」

 ただ、この世に戻ってくることはない。二度と。
 産土は言霊の神に別れの挨拶をしたとき、はっきりとそう告げていた。さきが確信を持てるのは、それだけだった。

「そっか……」

 舞依は少し俯き、黙る。

「なぁ、話を前に戻すけどよ。野間さんの性格が変わった理由って、結局なんだったんだ?」
「ああ……泉にあった恋歌は、小鈴くんと判者さんの力によってすべて消えたでしょう? そのとき、野間の心に巣食っていた念も浄化されたのだと思いますよ」
「浄化って……それで豪快おじさんになったってのか?」
「陰気を食われて陽気になった。これをラッキーと言わずになんと言えば?」

 にこりと笑う久能に林吾が呆れたように「うへぇ」と唸った。

「でも、それで野間さんが二度と産土さま復活を考えないなら、いいことだよね」
「先輩、それお人好し過ぎるっすよ! 奏一さんなんて連れ去られてひどい目に遭ったんすよ!」
「私も判者さまと同じ考えだよ、林吾」
「奏一さん、仏っすかー!」
「で、判者さまたちが土地神から聞いた言葉ですが、『しばらく眠る』と言ったんでしたね?」
「はい」

 視線を林吾からさきに戻しながら、久能が言った。隣にいるみことは身構えたのか、その身体が微かに揺れる。

「いずれ土地神が目覚めたとき歌合はまた必要となる。土地神の御心に囚われていたあなたなら、わたしの言っているこの意味……わかりますね?」
「……はい。土地神さまは、今後も恋歌を所望すると言っていました。歌合はこれからも続いていくでしょう」

 産土を喪失したことで生まれた大きな大きな空洞。土地神のあの悲しみを少しでも埋められるよう、恋の歌を届けねばならない――いや、届けたい。そう思うことは烏滸がましいかもしれないけれど、さきは心の底からそう思った。
 それは五十年、百年……いや、千年かかるかもしれない。

(それでも私たちは――結倉は、土地神さまと一緒に生きていく)

 ホームに滑り込んだ電車に乗って、久能と都鳥は去っていった。さきたちは電車がカーブを曲がって見えなくなるまで見送り続けた。


 澄み渡った空と海の境に、雲がいくつも浮かんでいた。

「うーん、天気いいねぇ」
「そうだね」

 さきは高台から見下ろす結倉の山と海に目を細める。その背後ではベンチに腰掛けたみことが、ぼんやりとした表情で前髪を風になびかせていた。
 林吾の提案で、実臣のバーにて夕ご飯を食べるという話が決まったあと、集合時間まで解散することになった。そこでさきは、家に戻ろうとするみことを呼び止めたのだ。

「ここって第一回の歌合のあと、ばったり遭遇した以来じゃない?」
「あー、そうかも」
「二ヶ月かそこらなのに、ずいぶんと前に思える」
「いろいろあったし」
「うん、いろいろとありすぎた」

 さきはみことの隣に座った。

「この前はありがとう」
「なんの話?」
「土地神さまの心に閉じ込められたとき、助けてくれたお礼。みことくんがいなかったら、今ごろどうなってたかわからない」
「そのときは、他の歌詠みが助けたよ」

 唇を歪めるみことに、さきは首を横に振った。

「みことくんだったから、私は戻ってこられた気がしてる」
「……前みたいなのは嫌だっただけ」
「うん」
「借りは返したよ」
「ええ、借りっていうのかなぁ」

 さきは吹き出したあと、少しだけ視線を揺らす。

「ねえ、あのとき私の名前を呼んでくれたよね」
「え?」
「土地神さまのとこで、呼んでくれたでしょ?」
「そうだっけ?」
「えっ、しらばっくれちゃうの?」

 顔色を変えないみことから視線を外し、さきは高い空を見上げた。

「ちぇー。せっかくならまた呼んでほしいのに」
「あなたが判者である限り、むやみには呼べない」
「うん、だからたまにでどう? 幼馴染モードのときとか」
「モード? 何それ」

 肩を軽く揺らしてみことが笑う。

「じゃあいつかね」
「いつかっていつ?」
「いつかはいつか」

 他愛もない言葉のやり取りが軽やかに飛び交う。
「そっかぁ、いつかかぁ」とさきがため息まじりに言うと、沈黙が訪れた。嫌な静けさではなかった。みことといるときの、いつものやつだ。だからさきは二秒ほど心の中で数えてから、みことにゆっくりと視線を戻した。

「……!」

 横目でこちらを見ていたみことの視線とぶつかる。ふいを突かれて驚いたのか、肩を揺らすみことにさきはにっこり微笑んだ。

「じゃあ、その日を楽しみに待つね」
「…………」
「喉、乾かない? 自販機でジュース買ってくる。あ、私のおごりだよ」

 立ち上がると、さきは高台の入り口にある自動販売機へと駆け出した。
 みことはその後ろ姿を見送ったあと、ほっと息を吐き、目元を和らげる。名前を呼ぶ日が、本当に来るのかなんてわからないというのに、彼女はどうしてあんなふうに笑うのか。何もかもわかったような顔をして。ああ、嫌になる。今も昔も――

「さきには勝てない」

 呟いた言葉と裏腹の優しい声は、海から上がってきた風に飛ばされ、青い空へと消えていった。
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