第三回 歌合

「これより歌合うたあわせを執り行います。それぞれ名乗りを」

 さきの声が空間に響く。

比斗奈ひとな神社が守護人しゅごびと、小鈴みこと」
「同じく、比斗奈神社が守護人、新館舞依」
富垂ふた神社より、佐波奏一さなみそういち
「同じく富垂神社より、鷹屋実臣」
広未ひろみ神社が守護人、空谷真秀」
「同じく、広未神社が守護人、桃園林吾」

 今回で三度目となる六人の名乗りが終わると、さきは身体の向きを変えた。
 しめ縄の奥からは冷たい風が絶えず吹いてくる。暗闇ばかりで何も見えない空間に向けてお辞儀を終えると、さきは再び歌詠みたちに向き直った。

「題目は――香り」

 空間が捻れ、淡い光をまとった「香り」の文字が宙に揺らめく。光は風に煽られると粉々に砕け、波のような曲線を描いて消えた。

「畏まりました」

 歌詠みたちは両手をつくと頭を垂れる。つなを見ると、彼は目を伏せてうなずいた 。
 それを合図にさきは息を吸う。

「第一の詠み手」

 頭を下げたのは実臣だった。

あの午後にお前がつけた香水のラストノートが星になるまで

 目の前を一筋の光が、波のようにたゆたいながら通り過ぎていく。
 そのあとに鼻先を掠めた香りは甘く、いま開かれたばかりのような、花の匂いだった。空間に差し込まれた午後の明かりが、どこか気怠げに、先ほどのたゆたう光に降り注ぐ。

(あれ……?)

 気づけば香りは、甘酸っぱい果実の匂いに変わっていた。
 あの午後を思い出せば、いつだって歓びに満たされる。あの人の声、あの人の指先、あの人の何もかもが自分の心に触れてくる。
 これほどまでの恋に、もう二度と出会うことはないだろう。
 そんな自分を人は笑うかもしれない。そう言いながら、何度も恋に落ちるのが人間なのだと。けれど自分の心は確信していた。これこそが「恋」なのだと。
 そう、思っていたのに――。

 さきに届く微かな香りはふたたび変化していた。花とも違う、果実とも違う、それは遥けき場所からそっと届く。一筋の光が、くるくると円を描きながら高く昇っていくのを、さきは見上げた。そして、「あっ」と小さく声を上げる。

「星……」

 天に瞬く光を見て、さきの胸に切なさが灯った。あの日の恋が、あの午後のあの人の香りが、いま、自分から解き放たれたとわかったから。
 星は静かに輝き続ける。空の一番高い場所で、これからもずっと――。
 小さな光が消え、空間が薄暗闇に戻ると、冷たい風が足首をさらう。それでもさきの心は余韻に揺れていた。

(さすが鷹屋さんだな)

 表情を引き締め、静かに息を吸う。

「第二の詠み手」

 さきの声に、真秀が礼を取った。

音の無き雨に打たれし此のかいな。使ひて触れぬ、と同じ香に

 細かな雨が降りしきる。辺りは薄くけぶっていた。なんて柔らかな雨だろう。頬に触れる水の微かな気配、どこからか立ち込める濡れた緑の匂いに、さきの背中は粟立つ。
 まるで音のしない静かな世界だ。梅雨が続く陰鬱な時期は、人の足も外に向かなくなるからだろうか。
 けれど外に出れば、自分の身体や感覚に、鮮やかに訴えかけてくるものの多いこと。閉じこもっていては出会えない寡黙なものたちに、さきは圧倒される。

 ふいに、水音が響く。

 傘に落ちた雨がようやく水滴となって、滑り落ちたのだ。
 自分の感覚が鋭くなっていくのをさきは感じた。先ほどまで聞こえなかった微かな雨音さえ、聞こえてくる。自分を中心に五感が広がっていくようだった。
 見えない指先が何かに触れた。甘く、けれど雨に溶けてしまうほどの仄かな香り――花だ。
 たちまち唇が綻ぶ。いつか自分の隣に立っていた、あの人から香った花の匂いだと気づく。
「見つけた」と囁く。こんな静かな世界の、こんな片隅にあの人がいた。
 けれどあっという間に、さきの胸は切なさでいっぱいになる。あのときはただの花の香りだったのに。今はどうしようもなく、ここにはいないあの人の存在を感じてしまう――

「……っ」

 さきが軽く身じろぎをすると、それに気づいたように空間が解ける。
 暗闇の広がる宙を少しのあいだ 見つめたあと、さきはゆっくりと視線を歌詠みたちへ戻した。

「第三の詠み手」

 その言葉に、今度はみことが頭を下げる。

揮発した思いが脳を刺激する
なかったことにはできない、全部

 思いには温度がある。そうでなければおかしい。
 なぜなら自分の思いの中には、香りを放つものがあるから。自分が願ったわけではない。その思いは生まれたときからすでに、香りを纏っているのだ。
 それが熱を帯びると、匂い立つ。

 さきは、空間に広がる様々な思いを眺めた。
 以前の歌合わせのときに林吾が詠んだ歌の、感情の色彩を思い出す。それと較べ、みことの思いは色彩が淡い。どの色も水で薄めたようにさらっとしていて、自己主張をしないでいる。けれどよくよく見ると、やはりひとつずつに色があって、悲しかったことや寂しかったこと、嬉しかったことがさきの胸に触れてくる。

(この香りは……)

 なんとも形容のしがたい匂いだった。まるで風に運ばれてきたいくつもの香りが、混じり合っているような――。
 不快ではない。むしろさきの心をくすぐる爽やかな香りだ。

 なかったことにはできない。もしできたとしても、きっとしない。この思いは自分の心から生まれたものだから。
 それは決意とも違う、諦めとも違う。どことなく他人事のように呟きながら、自分の心を見つめている。
 思わず、さきは微笑んだ。

(ふふ、みことくんらしい)

 空間が戻ると、さきは扇子を持ち直す。まだ微かに残っている香りを探すように、空間を見渡し、それから背筋を伸ばした。

「第四の詠み手」

 舞依がゆっくりと頭を下げる。

匂いなど要らぬおもい出など要らぬ、なれ抱きしめる永遠とわの如くに

 ふたつの影がさきの目の前に現れた。
 影は寄り添い合うと、それきりじっと動かなくなる。互いを抱きしめる腕も、背中や首に触れる手も、少しだけ相手に凭れかかる頭も、動かない。
 ただ、ふたつの影がそこにある。

 他には何も要らない。なぜならふたりがいるそれだけが全てで、そこにしか「永遠」はないから。
 言い切ったあとすぐに、心は揺れる。

「でも『永遠』なんて、どこにもないのよね――」

 相反する思いを抱えながら、影たちは息を潜めている。祈っているのだろうか。願っているのだろうか。
 それともただ、互いの存在を確かめあっているのだろうか。
 どこか満たされない気持ちをさきは感じながら、ふたつの影を見つめた。そして、ふと、ふたつの影がひとつになっている――ように見えた。
 軽く瞬きをし、さきは淡く微笑む。
 ふたりがいる。それだけが全てで、そこにしか永遠はないのだ。

「第五の詠み手」

 舞依の短歌の気配が消えると、さきは一呼吸置いてから、声を上げた。
 その声に反応したのは林吾だった。

多分、おれ、好きになっちゃったと思う…「シャンプー変えた」なんて言われて

 ふわり、とさきの目の前で柔らかなものが揺れる。
 なんだろうと思って少し身体を引くと、それは真っ白なカーテンだった。窓から入り込んだ風に煽られて、大きくカーテンがはためいている。

(ここは……教室?)

 さきの記憶にも懐かしい、学校の教室の風景が広がっていた。人影はない。ただ開かれたカーテンがゆらゆらと踊っている。
 けれど、またもう一度大きくはためいたとき、さきの鼻先を甘い匂いがよぎった。けれど、それはあっという間に消えてしまう。この香りは――。

(洗いたてのシャボン?)

 匂いを探すように、さきは辺りを見渡す。まるでその素振りを試すように、香りははっきりとしない。なかなか見つけられなくてもどかしくなる。どこからか、くすくすとした笑いが聞こえてくる気さえする。

 ただの日常会話の延長線上なのか。それとも、そうじゃないのか。
 わからなくて気になって、結局、ふたたび香りを探してしまう。一瞬の風が教えてくれた、あの子のシャンプーの香りを。

「……第六の詠み手」

 目の前から教室が消えてなくなると、さきは最後の詠み手に呼びかけた。
 黙って目を閉じていた奏一が、静かにお辞儀をする。

さざなみのあやしき思ひ熟れ果てし因とは君の香りならむか

 何がこんなにも、自分の心をかき乱すのか――?
 触れる何もかもに心が惑うように、揺れる。なんという苦しさだろう。どんな言葉をもってしても、表現し尽くせない。
 なぜ、こんなにも自分の心は騒ぐのか――?
 それはあのとき近づいた、君の香りを知ってしまったからだ。そうだ、きっとそうなのだろう。深い闇から香る花のように、君の香りは私を誘って絡め取り、この心はたちまち熟れてしまったのだ。
 ああ、君のせいだ。君が私を、こんなにも駄目にする。

(……っ)

 男の絶えることのない、甘やかな恨み言に、さきは軽く息を呑んだ。濃厚な甘い蜜の香りがねっとりとさきを取り巻く。
 こうなったのは君のせいだと言うけれど、今まさに、絡め取られようとしているのは、自分だ。さきはそう思った。
 こめかみに、じわっと汗がわくのを感じて唇を噛む。闇の向こうから、今にも自分を抱き寄せる腕が現れそうだ。
 もうこれ以上は、と思った瞬間、冷たい風が甘い香りを吹き消した。

 浅く打つ鼓動を宥めながら、さきは目をつぶる。
 全ての歌が詠み終わり、宙で揺らめいていた六つの短歌は、丸いぎょくへと変化した。
 くるくると廻りながらさきの元へと集い、目の前に静止する。




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